「分離はやっぱり差別だよ。」(大谷恭子著)を読んで

2025.6.22

 

 大谷恭子さんのお話を大阪弁護士会館で聴いたのは昨年の629日ですから、はやいものでちょうど1年前ということになります。その時の講演原稿をベースに編集された「分離はやっぱり差別だよ。~人権としてのインクルーシブ教育~」という本が現代書館から発行されました。編者によるとこれは大谷さんの願いでもあったということです。

この本を読みながら自分の想いを続けて書き連ねていきます。

 インクルーシブ教育をテーマに行われたシンポジウムの基調講演である大谷さんのお話は今年2月に録画という形で公表されましたので、それを視聴しながら記録を取りホームページに載せました。本を読んでみると自分の関心のあった部分はほぼ間違いなく記録が取れていたので安心しました。

シンポジウムの前から関心があったのは事前にいただいたレジュメにあった「発達保障論と共生共育論を融和させること」でした。当日もその部分だけは絶対に聞き漏らすまいと構えていましたが、圧倒的な時間不足のため短い時間の話になってしまいました。今となってはどうしようもありませんが、もっと詳しく話を聴かせていただく機会があったらその真意を深く理解できたのではと残念な思いでいます。

この融和の話は「編者はしがき」という本では冒頭部分にあり、「これは遺言」と見出しがつけられています。そこでは「最後に大谷先生が声を大にして呼びかけたのは、発達保障論と共生教育論を融和させること。『何とか融和できませんか?』」と始まり、次のようにまとめられています。

 

「共生共育も発達保障も、人権であって、矛盾しない。ただし、分離されたところで発達を保障するのはパターナリズム。それでは共生共育にならない。共生共育と発達保障が融和しないと、いい教師にあたらない限り、ダメということになる。学校現場は教師で決まるから、教師が発達保障論によってこの子はここに来るべきじゃないと考えていたら、絶対うまくいかない。

そこが一番問題なの! 共生共育と発達保障がいつまでも対立していたら、学校現場はよくならない。地域の学校には行っても教師の助けがない。これは残念ながら不幸です。合理的配慮を可視化して、学校の先生たちが共生共育を担うようになることが必要。」

 

その後、インクルーシブ教育は目標であること、それを目指して実践すること、そのことによって学校文化が変わる、すべての子どもにとってのインクルーシブ教育であることを語られ、今日の話をぜひ持ち帰ってほしいと何度も訴えられました。

 

「何とか融和できませんか?」という問いかけは現場の教師たちに向かって投げかけられたものです。それぞれの論を理論的に整理して融和させてほしいという意味ではありませんでした。しかし以前にも書いたように、「派」としての融和は到底かなわないことだと思います。この対立は単に教育や思想的なものだけでなく、政治的にも対立は今も続いているからです。

ただ共生共学に抵抗があるのは発達保障論を掲げる人たちだけではありません。圧倒的に多いのは自分自身の実感からすれば通常の学級を担当する教員たちです。通常の教育に携わる教員の大半は特別支援教育をめぐる共生共学と発達保障の対立について知りません。発達保障論については知らないけれど「子どもたちにとって発達はとても大事なこと、重要なこと」という教育論を根底に持っています。「発達という幻想」に気づいていないだけ共生共学がストンと腹に落ちるには時間を要します。特に「障害児を普通学級へ」という動きに対しては抵抗があります。

 

以前、1980年代当時の全国教研の忘れられない場面について次のように書きました。

「全国教研で忘れられない場面があります。あるレポーターがこんな話をしました。

『ほとんど発達が望めない、というより後退しているとしか思えない生徒に発達のためと称していろいろな訓練を中心とした教え方をしてきた。生徒はそれに耐えて頑張ってきたが成果は望めない。それでよかったのか?』 

そういった意味のことを述べて俯いてしまいました。彼はその場にいた障害者から徹底的な批判をされていました。『いつまで訓練したらいいのか!』『死ぬまで発達しなきゃならんのか!』といった怒りの声にうなだれながらじっと聞き入っていました。障害者自身の声に初めて自分自身の実践してきたことに思いが至った様子でした。後でお話を伺ってみると、彼は決して発達保障論に与しているわけではありませんでした。障害児教育に関する研究論文や教育方法に関する本を読んで得た知識をもとに、誠実に生徒に向き合い自らの実践を積み重ねてきたといった風でした。こういった場面には何度となく出合ってきました。」

 

共生共学と発達保障について書き連ねている中で、その時の出来事について書かれている文章を見つけましたので紹介します。それは1988年10月発行の「ともに学ぶ教育をめざす会」が編集した「私たちのめざす障害児教育(第3集)」に収められていました。

36次教研障害児教育分科会・参加者の声」という文章です。

 

 「どこにも対立のあることが悲しい。障害児教育分科会における障害者の人格をめぐる基本的な対立を見、単純無所属で一人初参加の私は心痛む思いがしました。等しく教育という難問を前に‥‥。

 単なる実践報告でなく各県の実情をしっかり分析した上で、臨教審・文部省の選別能力主義に対決しながらの発想豊かな実践、生徒との触れ合い、そして主張に接し、我身のふるえを覚えました。

 自信をもってレポートした私の実践は、特殊学級卒業生として社会に出ていく生徒(4人全員就職)に豊かな一生を保障するものでなく、単なる中学時代の楽しい思い出、これだけやってやれた、みんなからも、よくがんばったと評価されたことによる担任の自己満足でしかなかったことを反省させられた。3日間ずっと悩み、考えたこと‥‥。その一つ、障害者と健常者はどこでわけるのか。特殊学級向き養護学校向きの児童・生徒であることをどこで分離し、それを誰が決定し得る資格をもっているのだろうか。私自身は一体どちらに入れられるのであろうか。希望して行くならともかく、みんなと同じ普通学級で学ぶことに価値をみい出し、そうしたいと願う親や本人に障害をもつことを理由に拒否する(選別)のは差別そのもの。

 (中略)

 最後にもう一つ、今年卒業したS君はハンタ症候群といわれ、障害は進行性のようだ。できないことが増えつつある。“人は限りなく発達する”ということ、発達保障ということは彼の前にはあまりに白々しく、残酷ですらある。私は彼にもっと多くの人とのかかわりこそ保障してやるべきだった。特殊学級は特殊学級人間をつくるのではないか。そんなことを悩みつつ重苦しい気持ちをどうしようもなく帰路についた。あーあまたしても少数派なのか私は。」

 

 35年以上も前の文章です。「特殊学級は特殊学級人間をつくる」などの問題のある文言もありますが、その当時こういった思いで帰路につく人たちを何人も見てきたように記憶しています。そしてその姿は特殊学級担任となったころの自分の姿に重なります。続けて書いていきたいと思います。

 

 

山口正和さんの講演(後半)

 

「私の歩んだ道

 

   ~本当にこれで良かったのか~」

 

2025.3.15

豊中市の教職員組合の委員長だった石原忠一という人がいるんですけど、この人、昨年亡くなったんですけど、交渉の時に必ず六法全書を置いとくんですよね。必ず憲法のこというんですよ。そもそも豊中がこういうことができるようになってきたのは、こういうことというのは分けないことを今も続けられているのは石原委員長が就学猶予とか就学免除になっている子がいる、子どもの障害が重いから一年生になるのをもうちょっと待ってくださいとか、親の義務を免除してくださいという願いを出すんですよ、教育委員会に。そうしたら「そうしましょう」ということで3年遅れて入学してもいいとか、ずっと公教育受けなくてもいいとか、そういう制度があったわけです。昔は。当たり前みたいに障害のある子は当然公教育から外される、当たり前みたいになっていたわけで、石原さんは、同じ子どもに変わりがないのに教科書も渡されない、給食の補助もない、その当時は予防接種とか無料でやってましたから予防接種も受けられない、夏になったら学校のプールにも入れない、基本的に学習権を保障されていない子どもがいる、これ何とかせないかんということで始まったわけですよ。

私ら教職員が就学猶予免除の子の家庭訪問とかしてましたが、そのうち親御さんも一緒に行ってくれるようになってようやく心開いて話をしてくれるようになりました。最初は教育委員会と同じやと思ってはるので、「今更、何なんですか」みたいなこと言われて取り合ってもらえませんでしたけど、そういう工夫とかやっていく中で、もともと豊中に市立養護学校を作ろうというのが教職員組合の目標だったんですよね。私が教員になった70年にはそれがまだ残っていました。

この運動進めていく中で京都の方に与謝の海養護学校というのがあって、地域の中に開かれた養護学校ということで、開校して2年目やったか3年目のとこで有名な学校でした。そこの教頭さんに来てもらって色々聞いたんですよね。「開かれた養護学校てどんなんですか?」て言うたら、結局のところ与謝の海養護は、京都は結構広いですよね。与謝の海の辺やったら島から来てる人もいるわけで、だから与謝の海養護学校の近くの地域なんですよね。で、それ聞いた親御さんは「えっ、何で自分の住んでいる地域と違うんの?」て。与謝の海養護学校は寄宿舎もありましたし、「何で親から離れてそんなとこ行かんならんの? 地域言うたら自分の住んでいる地域と違うの?」と思われたわけですよね。

で、地域拠点学級「ひろがり学級」というのを作ったんですけど2年も経たないうちに「地域の学校へ」という運動に変わっていくわけなんですけど。そういう仕掛けを作らないと。親御さんと一緒ということで色んな展望が開けてきたんですよ。

 1979年養護学校義務化の時は運動がすごく盛り上がりました。東海道を西から東京へ行進して、そういうこともやりました。滋賀の止揚学園なんかも頑張ってやってきました。1979年というのは一つのメルクマールであったわけです。「たとえば『障害』児教育」という映画も撮りましたし、豊中にとって大きかったのは「障害児教育基本方針」を前年の78年に市に作らせたんですね。発達保障論の人たち、それからもっともっと保守的な人たちから「何で重い障害の子どもが豊中の学校に来るんや」て度々言われたけれども、教育委員会は「この豊中市障害児教育基本方針を基にやってます」と、バイブルみたいなもんを水戸黄門の印籠のように出せるわけですよね。これを作るには本当に苦労しましたね。いま言ったように色んな考え方の人がいるんですよね。発達保障論の人たちもどんどん言います。

その中で折り合いを付けていくわけですけど、後ではそういうものが効いてくるわけですよね。

 各学校で言えば紀要というのを作ります。1年間のまとめみたいなものですね。冊子にするんですが、そこに盛り込んでいくんですよね。就学前検診の時までに必ず保育所や幼稚園を回るとかね、それから親の会を組織して必ず教員は参加するとか、昼間にするから管理職も参加するとか、障害のある子のクラスの授業は教頭も持つとかね、音楽の専科の先生は障害のある子のいるクラスに行くとか、そういうことを書いとくわけです。障害の担当者はよそから転勤してきた人はダメ、12年経験した人でないとダメとか、障害のある子のクラスに補欠に行くにしても障害のある子につくのではありません、クラスにつくんです、とか書いておくんです。それをしなかったら、熱意のある人が転勤したら、あっという間につぶれてしまいます。本当に熱っぽく言う人がいなくなったら、何でもそうですよ。別に障害のある子どもの教育に関わることだけじゃなく、例えばビオトープ、ものすごく一生懸命やる人がいてビオトープ作ったんだけど、その人が転勤したら何年か経たんうちにホントに草ボーボーで、本当のビオトープになってましたけど(())、そういうことってありますよね。

 だから、これを続けていくためにはどうすべきかということとか、ゆくゆくやっぱり世代は変わっていくわけですから、その時に苦労してきた人たちの、それをどう継承していくかということとか、仕掛けの工夫が必要なんだと思います。

 それからどこかに「絶滅危惧種の繰り言」とか書きましたけど、なんか最近、豊中では私のことをレジェンドとか言う人がいるんですよ(())、レジェンドも、もうそのうち死ぬねんやからレジェンドやなく、ジ・エンドやと思うんですよ(())。日本語の訳は「絶滅危惧種」やと思うんですけど、そんなこと言うたかなあ?と思うようなことを言われることがあります。

 この間もDPI日本会議の崔さんが豊中の学校に群馬の議員さんを連れてやってきたんですけど、本当は上田の哲ちゃんという、スイスまでものを言いに行った人がいるんですけど、

彼が骨折してまだ入院中なんで、それこそレジェンドの鈴木留美子さんていう母親も、昨日退院してきたんですけど、二人ともいなかったんで私と若いお母さんとちょっとベテランのお母さんとうちの妻と、先ほどの喜真理ね、本名は喜美子と言うんですけど、4人でお話ししたんですけど。その時、崔さんが話されたんが、前に日教組教研の後の飲み会で、「山口さんに、『あなたの戦場はどこですか?』って聞かれた」、それを覚えてるんですね。私は忘れてましたけどね、でもうまいこと言うたなって思います。「あなたはどこで戦ってるんですか?」。さきほどイタリアに行きたいといったお母さんの戦場はどこですか? やっぱりそこやと思いますよね。

私の戦場は豊中と箕面ですし、宮崎さんの戦場は伊勢ですよね。池田さんとかはそれなりの(愛知に)戦場があるわけですよ。そこを離れてどこかのこと言ってたらあかんのちゃうと、崔さん見ていてそう思ったんかなと。そんなこと言うたそうです。

もう一人、さっき名前言いましたけど、井上康さん、電動車いすで京都の方から豊中へ引っ越しされて、もう30年くらい経つんですけど。豊中の市議会議員選挙に出て、あと150票足らずでなれんかった人がいるんです。その井上さんは豊中に来るのにいろんないきさつがあったんだけども、日教組教研で出会ったレポート発表した京都から来た人で「発達保障論の牙城から来た人にしてはちょっと違うこと言うな」と思って、終わってから声かけて友だちになって、その人が井上さんと昵懇だったのでその人の家に行って食事したり飲んだりしてたんです。その時に、井上さんは「山口さんにこう言われた」というんです。

自分は例えばカレーうどん食べる時に、カレーうどんやったら飛ぶやないですか、それが迷惑になるんやないかと、なかなかカレーうどん好きやけどなかなか食べられんという話をしたらしいです。その時に井上さんの話では、山口さんが「それは違うんと違う、間違うてるんと違う」とか言わないで、どこか遠くを見るようなまなざしで「ひとに迷惑かけるっていうのは、そんなに悪いことかなあ」と、ポツリと言ったそうなんですよ。それが井上さんは「『そんなん違うやろ、そんなん人に迷惑かけて当たり前やろ!』って言われてたら、そこまで思わなかったけど、遠くを見るまなざしで(())ポツリと言われて、それはすごく染みた」と言ってくれたんですよね。なんか自分では思わなくてもそういう風に受け止めてくれることがあるんやなあと思いました。

逆にねえ、私が心に残ってること二つお話しして一応、最初の話を終わりたいと思います。

一つはねえ、私が2校目の桜塚小学校というところで、そこでの話があるんですけど、1校目の庄内西小学校であの人と知り合ったんですけど、あの人というのは喜真理さんですけど、人生どこに落とし穴があるか全然わからないもんですけど((笑い))、まあ結婚したんですね。結婚したら同じ職場にいられないんですよね。学校というところは。で、転勤して桜塚小学校というところに行ったんですけど、そこで弱視学級をやれって言われて半年研修に行って次の年度に開級したんですけど、まあ弱視「学級」は子どもを集めるとこやから「学級」じゃない弱視「教室」にしますって勝手に名前変えたんですけど、通級指導教室、通級指導教室は通級指導学級やなくて教室やから在籍関係はないですよね、それを何でか知らんけど1970年代に、そう思って弱視学級やなくて弱視教室にしたんです。桜塚小学校にはいろんな子どもいますから、私のくしゃみだけで発作が起こって倒れてしまう子がいたんですよね。

その子の学級担任した時にね、方々から鼻つまみもんになってる子どもがおって、家庭訪問に行ったら「ウチの子には、あの子とは遊ばないように言ってます」って言われてる男の子がいたんですよね。私は面白い子やと思ってたんですけどね。その子がある日、私に「せんせえ、かおちゃん見んのしんどい?」って言うんですよ。かおちゃんてのは私のくしゃみがもとで発作で倒れてしまう、言葉も出ない子でしたけど。「かおちゃん、見んのしんどい?」って、しみじみ言うんですよ。それはやっぱりすごい堪(こた)えましたねえ。なんかねえ、それ、見えてたんやなあって。しんどそうにしてたんやなあって、思ったんですよ。しんどい時もあるから、それ見せたらいいんですけど。そんな風に、かおちゃんのこと、自分見てたんかなあって思って、なんか見透かされたような感じがしました。

 もう一つは、中学生の子なんですけど。「障害児学級の子は2回差別されるんやなあ」って言った子がいるんですよね。2回というのは、障害があるということで1回差別されて、障害児学級在籍や言うことでもう一回差別されるんですよね。「ひまわり学級」とか「たんぽぽ学級」とか、きれいな名前のついてる学級の子やということでもう一回差別される。まあ、すごいなあ、子どもにもすごい子がいるなあと思いました。

 あと本当は、いま推進協というところで仕事してますので、いまの宮崎さんのお仕事と、皆さんのお仕事と似たところたくさんあるんで、その話を少ししたかったんですけど、ちょっと後の質問の時間に充てたいと思いますので、リーフレットみたいなん行ってると思いますので、私らのやってることは見開いたところに五つ書いてありますけど、そんなことやってるんですが、一応スローガンは「ためにではなく ともに」というのです。やっぱりこの仕事してたら、ヘルパーさんなんか「ために」と思て色々生活指導みたいなことを言ったりするんですよ、利用者さんに対してヘルパーさんが。それはやっぱり一番いやなことですよね、利用者さんにとったらね。なんぼ自分のため思て言ってくれてるのか知らんけど、いちいちヘルパーさんが偉そうに指導するみたいなこと、それはやっぱり違うなあと。「ために」じゃなく「ともに」は、互いに向き合うんじゃなくてその人と同じ方向見るような、そういう姿勢が大事やないかなあということをスローガンにしています。が、スローガンがみんなに浸透してるかとなると必ずしもそうではないので、色々苦労しております。

 

 とりあえずそこまでで、皆さんのご意見も。私の言い放しですので、「違うやろ」ということがあったら、またお願いします。(拍手)

山口正和さんの講演(前半)

 

「私の歩んだ道

 

  ~本当にこれで良かったのか~」

 

長時間(落語を)聴いていただいてありがとうございました。

(講演の)時間の方がショートですので、資料というか刷り物を置いてますので読んでいただいたらと思います。

昨日、東大の小国先生の研究会がありまして、昨日はイタリアのインクルーシブ教育、フルインクルーシブ教育についての話ということで、いま支援学校の教員をしてみえる大内さんという人が話されました。私もズームで参加していたんですけど「あと3人ほど意見言ってもらっていいですよ」ということで手を挙げたんですよ。それで当ててもらいまして、この頃おとなしくするようにしてるんですけど、珍しくちょっと熱が入ってしまいました

())。

大内さんがイタリアのインクルーシブ教育はすごい良いと言ってはったんですよ。実は私もイタリアの1970年代の話は聴かせてもらってました。1970年代にミラーニというイタリアの先生は、日本が1979年の養護学校義務化の時に障害のある子をランク分けする、そういうテストみたいなんを作った人なんですけど、もう1970年代にミラーニさんは「障害のある子を金の鳥籠で育てるようなことは間違いだ、いくら金の鳥籠であっても籠は籠なんだ」と、「子どもは外へ、鳥は外へ出ていきたいのにどんな豪華なダイヤや金の鳥籠でも意味がない」とすでに言ってはったんですよね。自分がしてきたことを否定していたのに、にもかかわらず日本はミラーニさんの作ったものを基に子どもを分けていたわけです。

イタリアとドイツと日本は前の戦争の時にファッショな国やったんやないですか。敗戦後イタリアも大変だったんです、ドイツはそのあと発展して大変お金持ちな国になったんですけど、イタリアは今も貧しい国ですよね。イタリアは貧しい国にもかかわらずと言うか、だからこそインクルーシブ教育、分けないのがいいんだと、そこへ行って色々良い話を聴かせてもらいました。

だけど、私がどうしても大内さんにシンパサイズできなかったのは、大内さんはインクルーシブ教育を進めるための大義名分を考えるべきやないかと、言われたんですよ。大義名分というのはそのことをするために大事なんですよ、大切なんですよということを言わないかんということですよね。

それにムカッと来たんです、私はね。1970年代以来、私たちはずっと子どもたちを分けないということを主張してます。豊中の市議会でも発達保障論の人たちとの議論でも「なぜあなた方は分けないんですか、なぜ共に生きるんですか?」って、ずっと言わされてきたわけです、私も親も。だけど、それ違うんと違うと、ある時私は気が付きました。私らの方から聞いたらええのやって。「なんで分けるんですか?」と。普通は分けないのに分ける、分けることの方に大義名分は必要なんやないですかね。

で、まあ、そのことを熱く語ってしまったんですよ(())。私は分けないことに大義名分は必要ないって思います。分けないことは当たり前のことですから、分けることの方が異常じゃないですか。アメリカの公民権運動も、黒人の人がバスに一緒に乗れない、それに抗議して、運動して何とか乗れるようにこぎつけたわけですよね。分けないことにあれこれ言われる筋合いはない、そのことを言ったわけです。

別の人が「大内さんが支援学校にいるんだったら、支援学校の中でインクルーシブ教育を進めるのにどんなことをされていますか?」という質問をしたんです。明確な答えはなかったですが、私も7年間支援学校にいましたが、やっぱりそこ(支援学校)でできることはあるわけですよね。

支援学校の実践で私が知っているのは二つ、一つは東京の八王子養護学校、ここは障害のある子はこんなん分らんやろ、算数なんかできへんやろと言われているのを覆そうと、「歩き始めの算数」とかやってきはったんですよね。羊の毛を刈って羊毛を作って、そこまでやるようになって、実践の中でやっぱり地域との関係が出てくるわけで、地域から外されているということに子どもも教師も気づいていくという実践でした。

もう一つは広島養護ですね。広島養護は面白いとこなんですけど、特に高等部は教師が「君、なんでここに来たんや?」「なんで広養に来たんや?」と聞くわけです。つまり、君らは地域から疎外されて、地域の学校からはじき出されてきてるんや、それを自覚するところから始める。そういうことは支援学校でこそできるわけですよね。

でも大内さんが言われたのは、大内さん、いい人なんですよ、インクルーシブ進めようとしてるんですからいい人なんですが、今の公教育、普通の小中学校ではいじめもある、色々教育の中身も障害のある子どもたちがついていけるような教育にはなってない、大阪で言えば枚方に宮崎隆太郎さんという方がいて色々本を書かれているんですけど、宮崎さんと同じようなことを言われているんです。つまり、今の小中学校や高校の教育が変わらないと、障害のある子をそんなところに放り込むのは余りに乱暴だと、よその国の言葉で言えばダンピング、放り込む、それはできない。だから支援学校があるんだという風に言われている。

同じようなことを聴きました。支援学校は必要悪だと、私は絶対悪だと思うんですけど。

それって1970年代に国立特殊教育研究所の人たちが言ってることですよ。私らが突っ込んでいくと、山口さんが言ってることは理想論ですよ、と。理想です、理想なんだけども、いまカリキュラムも二本立てになっている、養護学校用の教育課程と普通の学校の教育課程とあって、障害のある子の教育課程は「準ずる教育」になっている、今もそうですけどね。そこを変えないと一緒にするのは無理だと、1970年代から同じこと言ってるんです。言うは易し行うは難し。そうですよ、理想ですよ、だったら理想を現実に、夢を現実にする、努力をしないとだめですよね。「インクルーシブ教育は理想ですよ」というだけでちっとも変えようとしなければ、100年かけようが黄河の水がきれいになるのを待つのと同じですよね。

 1978年に「たとえば『障害』児教育」という映画を撮りました。プロの映画監督が豊中の映像を取りたいということで半年間、豊中の学校に入って、今とは違いますからプライバシーとかあまり関係なしに、その当時からダンピングみたいなことも言われてましたけど、「なんで豊中はそんなことができたんですか?」とよく聞かれます。ここ(ステップワン)で「たとえば障害児教育」を観た時もそういう質問が出たと聞きました。昨日のお話の中でも「うちの子にイタリアのインクルーシブ教育受けさせたいと、どうしたらイタリアの教育を受けられるでしょう」という質問があったんですよね。私はチャットで「そんなこと言わずに、この国をイタリアみたいないい国にしませんか、一緒に協力してやりませんか」と書いたんですよ。そしたらその間にお母さんの質問に大内さんも答えているし、イタリアに住んでいる人も書いてはるんですけど、やっぱり「イタリアでは東洋人に対する差別はある、イタリアでいじめや差別がないということはありません」と書かれてて、イタリアへ移住するのはいかがなもんですかと書かれていて、そのお母さんは「それだったら豊中に行きます」と書かれててそれやったらイタリアに行くのと同じと違うかと思うんですけど、考えてみたら、そのお母さんにそう考えさせているのは世間であったり地域であったり、日本という国ですよね。みんながそう思わせてしまっている。イタリアへ行ってでも良い教育を受けさせたい、というより日本でいじめや差別に合わせたくない、それは親心と言うか、それでいいんかとは思いますけど。そう思わせている世の中というものがあるんで、そこを変えていかないとと思います。

 宮崎さん(ステップワン)と色々やり取りしている中で、ここを立ち上げる時にやっぱり分ける場を作るんはどうやろかということを、私たちの大先輩である北村小夜さんに言うたら、北村さんは「まあ、ええとこ探すんじゃなくて自分らで作ろ言うてんのやからええんちゃう」と言ってくれたんですね。まあ大分値引いて言ってくれたんや(())と思いますけど、でもやっぱりどこかいいとこ探しするという、それは違いますよね。豊中でも昔はね、自分とこの子どもを小学校に入れるために、校長室に連れて行って「私、この子をここへ置いていきます」と、「そんなことして何かあったらどうするんですか?」言われたら、「何があってもいいです」言うて帰ったら、「ひどい親がいる、運動のために自分の子を道具にしている」と、そんなこと一杯返ってきます。やっぱりそこを通っていく中でさっき言ったように「何で地域の小学校へ行かせたい言うんですか」といったことに、いちいち答えてきたんですよね。

そこで自分の中の本質的なことが問われてくるんですよね。子どもとの関係も見直さないといけないし、だけど制度が整った中でそういった運動を知らないお母さんたちはいいとこ探しに走ってしまう傾向はある。それを今更経験せえと言うんやなしに私たちはそこを伝えていかないとと思います。

今も矛盾はありますよね。制度もできて、私たちはボランティアで友だちの介護とかしてましたけど、2030人さがさないと、その人の地域での生活が成り立たないわけです。それが今は仕事になっているわけです。ここ(ステップワンの事務室)にも一杯ファイルや書類がありますけど、箕面の推進協(箕面市障害者の生活と労働推進協議会)と同じやなあと見てたんですけど。それが仕事になってくるわけなんですよね。昔は「やっさん」とか言うてたのが、今は言わないですよね。利用者様ですよね。「井上さん」まあ少なくとも「井上さん」ですよね、まあ豊中ですから「井上様」とは言わないですけど、まあ良くはなったんですよ勿論。人員を確保するのに電話をかけまくってとかしたりして、そこはしなくて済むようになりました。

だけど一緒に歩いていたら、本人に声はかけないですよね。たいていは、ヘルパーさんに声かけますよね。昔はそんなことなかったですよ。本人に周りの人は声かけていましたよ。

制度が良くなったらそれはそれで色々矛盾とか、どうかなと思うことは出てくると思います。

 それからその話のやり取り(小国さんのセミナー)の中で、やっぱり分けるということは必要なんじゃないかと言う人もいるんですよね。発達保障する必要があるし、そのためには分ける必要があると。それから聴覚障害の人たちというのはすごく意識が高いですから、ろう文化とかそこを大事にしようと集まったりしてますよね。親の会なんかも豊中では減ってきてますけど、親の会の機能というのはすごかったですよ。いろんな情報を、あそこにちゃんと診てくれる歯医者さんがいるとか、発作があってもちゃんと対応してくれるお医者さんとかね、また、市教委に対して要望書作ったりとか、親の会として申し入れたりとかしてきたわけです。

何かを成就するためには、ここを変えようと思っているときには集まってする必要ありますよね。とりわけ障害当事者の皆さん、あるいは黒人の皆さん、部落差別を受けている皆さん、在日の皆さん、やっぱり集まって要求行動していく必要ありますよね。それは団結するのは権利ですよね。労働者が団結するのも権利やと、ちゃんと憲法に書いてある、権利ですよね。だけど分けられるのは、これは差別ですよね。自分の本意とは違って分けられるのはやっぱり差別だと思います。集められるのはそれも差別だと思いますよ、集められるのはね。自分の意思で集まって何かしようと言うのは権利ですよね。私はそう思います。

 そういうことを言ったりチャットに書いたりしていたら、「ここはそんなこと言う場じゃないでしょ。意見を言う場じゃないでしょ」とか「あなたは原理原則、原理主義」みたいなこと書かれて、ちょっとへこんだんですけど(()

 あとで豊中の若いお母さんが、ライングループがあって、そこに「友だちに誘われて参加しました。あの熱量が人を動かすんだと、大変勉強になりました」と書いてくれてまして、ほんで救われました。ほんとそうですよね。えらそうなこと言うみたいやけど、やっぱり何かをしようと思ったら熱量が要りますよね。

 「人の世に熱あれ、人間に光あれ」。水平社宣言にありますけど、ちょっと違うかもしれませんが、何かを変えるには「あの人、異常やないか」と言われたとしてもですよ。やっぱりそれだけの熱量がないと変えられないですよ。だから豊中でも、運動のために子ども使ってるとか、あんたが言うようにしてるから、大池小学校・豊中二中というのは進学校やったのに、昔は「東の鎌倉、西の豊中」と言われてたのに、あんたらが言ってる障害のある子もどんどん入れる、部落の解放教育やる、そんなことしてるから豊中はこんなんなったとか、言われたりしたこともありました。

例えば全国学力調査で沖縄とか大阪は下の方ですね。でも沖縄の人間関係って、ご存じないかもしれませんが。うちの息子が琉球大学に行っていて19の時に事故で亡くなったんですが、息子の入院してる間、「これほんま大学?」って思いました。

みんな下の名前で呼んでるし、同級生、行ってまだ1年も経ってないのにみんな来てくれるし、3回生の人も来てくれるし、授業2時間しか持ってない先生が来てくれたりとかね。教え子の親戚の人がタクシーの運転手していて家を探すのに一日一緒に行ってくれたりとかね。そんなとこですよね。沖縄は夜遅くまで明るいんですよね。だからみんな夜遊びしてますよね。そんなとこと「早寝早起き朝ごはん」とかをスローガンにしてるとこと違うわけですよ、文化がね。そういう意味ではイタリアと日本も違うわけで、文化が違うところの良いところは入れたらいいんだけど、何もかもイタリアみたいにしてしまうのは、それは違うと、思います。

話横にそれましたけど、熱はあってもね。熱意だけでは駄目ですよ。やっぱり工夫とか知恵も要りますよ。                             (続く)

文責  宮崎吉博

大谷恭子さんの話を聴いて(7)

2025.2.4

 大谷恭子さんのお話を昨年の6月に聴いた後、感想めいたことを書き連ねてきましたがご逝去の後は途絶えていました。中途半端な思いでいたところ講演を録画したものが手に入りましたので、改めて気になるところを記しておきたいと想います。

 6月の講演を聴く前にいただいたレジュメで気になっていたことが、「発達保障論と共生共育論を融和させること」でした。このことについてはどうしても聴き漏らしてはいけないという思いで聴いていたのですが、制限時間をオーバーしていて早口でお話しされたので結局はよくわかりませんでした。そこで今回、録画を観ながら記録をしてみました。おおよそ次の通りでなかったかと思います。講演の部分は字体を変えてあります。聴き取りにくい箇所については間違いがあるかもしれません。その点はご了解ください。

 

 お話の最後はこんな風でした。

 「それから最後に言いたかったのは、私は、さっき言った発達保障と共生共育の教育現場での分裂。今日は(前半部分不明)教組関係の人もいるから是非真剣に考えてもらいたいんだけど、何とか融和できませんか。

共生共育、とっても正しい、でも共生共育も人権、だけど発達保障もそれぞれの発達を保障することも人権、人権なんですよ。矛盾しない。ただし分離されたところで発達が保障されるべきだというのは、パターナリズム的なところは共生共育は絶対認めない。それは正しい。でも共生共育しつつ、それぞれの発達を保障しているんですということは矛盾しない。

ここが融和しない限り、行ったってどうせ嫌な先生に当たったら、その後がダメなんですよ。学校現場はやっぱり教師ですから、教師が発達保障論だけで『この子はここに来るべきではない』と思い続けていたら、絶対教育は保障されない。『ああよく来たね。君には合理的配慮、特別支援(「個別支援」のことか?)、これだけあるから』」

 

と、ここまで来て既に決められた時間をオーバーしていたため、何度もチンを押されることになり、「わかった。もう止めるから」「チン鳴らさないで」と言いながら続けられたのは次の通りです。

 

「それで、そこがいちばん問題なの。そこを学校の先生もチラホラいる。私たちも人権って言ったらみなさん応援する。共生共育と発達保障論の人たちがいつまでも対立していたら学校現場は良くならない。入っても教師の助けがない、それはやっぱり残念ながら不幸です。だったら合理的配慮と個別支援を可視化して教育を担う。教師たちも挙げてその子の教育を担う。共生共育として担う。ということを是非とも頑張ってもらいたいと思います。

そして最後にこれを締めの言葉として持ってきたのは一般意見。誰か読んで欲しい。

(ここでレジュメの中の「インクルーシブ教育を受ける権利に関する一般的意見」

2016年〕発表 

段落10 インクルーシブ教育はこのように理解されるべき

(4)インクルーシブ教育を実現する過程で、全ての生徒に配慮し、インクルードすることによって通常の学校の文化、方針及び実践を変革することを伴うもの。

が読まれる。)

 

続けて

「インクルーシブ教育は目標なんです。それをめがけて実践すること。そのことによって全ての子どもにとって学校文化が変わること。全ての子どもにとってのインクルーシブ教育なんです。

インクルーシブ教育の完成形は、私たちが自由・平等・博愛の社会を見たことがないことと同じように永遠の課題です。でも下げてはならない、到達した、今の最新の人権です。    だったらそれに向けて全生徒にとっての学校文化を変えること、学校文化が変われば地域が変わる。地域が変われば社会が変わる。それはこれからの報告でたくさん見れると思う。これから豊中の見て、『ああ、インクルーシブ教育を40年やっているとこうなるのか、ということを見れると思う。私は是非持ち帰ってほしいと思う。インクルーシブ教育は障害を持っている子どものためでなく全生徒のための学校文化を変えるものなんです。そのことを是非みやげに持って帰って、明日からの実践に備えていただきたいと思います。」

 

 ここまで来て講演は終了となりました。おそらくは基調講演60分という制限があってのことかと思いますが、最後の重要なところで制限時間一杯になり話を急いでみえました。

 レジュメには「発達保障論と共生共育論との融和させること」とありましたが、それぞれの論を融和させるという理論的意味合いより、論者達の融和を訴えているといった内容でした。学校現場での対立に焦点が当たった形のお話でしたが、実際の現場でそういった現象があるのか地方の小中学校においては当てはまらないような気がします。県内の特別支援学校の状況は把握していないので現状がどうなのか分かりませんが、おそらくは対立があるとしたら特別支援学校の方がその傾向が強いと思います。いずれにしても以前記したように政治的な問題もあり、組織的な融和は現実的でないと思います。

 いま県内の小中学校では共生共学の流れはほとんど聞きませんし、発達保障論を振りかざす人たちも少ないように思います。共生共学の流れに抵抗があるとすれば、それは発達保障論を鮮明に掲げる人たちではなく、むしろ通常の学級を運営する大半の教員の中に潜む発達への幻想にあるのではないかと考えます。通常の学級の担任団の意識が変わらなければ共生共学は根付かないと考えます。インクルーシブ教育の実現は通常学級の変革にあると言って過言ではないと思います。少しずつ書き連ねていきます。

 

 

大谷恭子さんの話を聴いて(6)

2024.10.31

7.「放っておいても」育つ

 「できたこと」について考えてみると、周りの人たちの教育的な働きかけがないと「果たしてできなかったのか?」。そんな思いに駆られることが発達保障論の人たちの発表にはありました。例えば、周りの大人たちのさまざまな取り組みの結果「初めて、その子に笑顔が見えた」というような話を聞くと、「本当か?」と思ってしまいます。当然のように、当時は不規則発言と呼ばれた野次が飛び交います。「なにもしなくても笑ったんじゃないの?」とか「嬉しければ、楽しければ自然に笑うだろう」といったものです。つまり放っておいても自然に笑顔を見せたり、泣いてみたりするんじゃないか、ということです。その方が自然に思えます。

発達心理・法心理学者の浜田寿美男さんの「親になるまでの時間」に次のような文章があります。

「『放っておいても』育つ、とは

私も長い間「発達」にかかわる仕事をしてきましたが、そのうえで「発達ってなんなの?」と聞かれると、よくわからないままに、開き直って、「こどもは放っておいても育つんですよね」と答えたりします。少々無責任かもしれませんが、ほんねです。問題は「放っておいても」ということの中身です。いいかえれば「自然のままにまかせておいても」ということですが、この「自然のままに」というところがむずかしい。

こどもを単体として取り出して、シャーレのなかで純粋培養できるわけではありませんから、「自然のままに」といっても、一人でほうっておいてそだつものではありません。こどもは周囲のものや人の世界のなかで生きているわけで、こどもの自然はかならず周囲とのセットで成り立っています。」

そのあと、母や父は「放っておいても」その子がかわいくなり、順調に育っていくのが自然で、そういう自然が人間には備わっていると記され、ただ虐待のように「放っておいても」成り立つはずの自然がうまく成り立たずそこなわれる例が指摘されています。そして、こどもを単体として取り出しての発達の考え方は近代以降の学校制度が定着してから世間に広まったと指摘されています。さらにこどもが二本足で歩くようになることは歩行能力の獲得ではなくて、その能力を使って外に出かけ戻ってくるという「往還」のある歩行世界を獲得したことだとしています。

そしてこう述べられています。

「あまりにあたりまえで、あえてことばにすると大仰にすぎるように聞こえるかもしれませんが、「発達」とは、こどもが単体として能力を獲得することではなくて、その能力を使って新たな世界を広げていくこと。一見ささいなちがい、ものの言い方のちがいにすぎないように感じられるかもしれません。しかし、この発想のちがいは大きいと、私は思っています。「発達」は個人を単位に考えてすむものはなくて、つねに周囲の人やものの「世界」とセットで成り立つ。このことをまずは基本線に考えていきたいと思います。」 (「親になるまでの時間 前編」2017年 ジャパンマシニスト社刊)

浜田さんは「自白の研究」で一躍脚光を浴びた発達心理学・法心理学者ですが、発達について本当に易しい言葉で的確に表してくれています。(途中自分で略してしまったので間違った解釈をしてしまっていないかと心配です。)

発達保障の考え方の人たちは、基本的には障害の問題は個人の問題であるという理解が前提にあるような気がしてなりません。だからこそ、障害の軽減、障害の克服に向かって隔離された空間で努力を強いられるというイメージを持ってしまいます。発達保障の教育は、あくまでも変わるべきは障害児個人であって、そのための教育だということです。

 

普通学級への入級を希望した親子は、極端に言うと「何も特別な手立てはしてくれなくてもいい、とにかく一緒にいさせて」が願いでした。子どものことは子どもたちに任せて放っておいてくれてもいい、子どもたちは慣れるにしたがって何らかの動きをするだろう、それが自然なんだ、そんな思いでいたように思います。

 

 

 

 

大谷恭子さんが10月11日にご逝去なさいました。享年74歳でした。6月29日に大阪の弁護士会館で講演を聴かせていただいたのが最後でした。心よりご冥福をお祈りします。

10月16日

 

大谷恭子さんの話を聴いて(5)

2024.9.20

5.発達保障論についての異和感

「発達」とは「からだ・精神などが成長して、より完全な形態や機能をもつようになること」(大辞泉)とあります。ここで「より完全な形態や機能」とありますが、具体的にはどういう状態を「完全」というのか、極めて難しい問題です。「より完全な‥」とありますから「完全」の具体像は必要ないのかもしれません。人間のからだ・精神の完全な形態や機能は実際には存在しえないものであり、いわゆる理想像なら描けるかもしれませんが、それとて一つのものではないと思います。

人間の一生を考えた場合、人間として誕生して年数を重ねるに従って大人になっていくことを考えると「より完全な形態や機能をもつようになる」のは大人への成長過程ということになります。子どもがどう大人になっていくか、その筋道を明らかにしてより完全な形態や機能をもつようにしていくために実践を重ねるのが発達を保障する軸になると思います。

となると、その理想像に向かっての近づき方には、「良い」と「悪い」、「望ましい」と「望ましくない」、「正しい」と「正しくない」などの相反する概念が生まれてくることは容易に想像できます。そこから「良い」「望ましい」「正しい」発達を目指し、保育・教育実践を重ねることが発達保障論では重視されることになると思います。「良い発達」とは何か? 「望ましい発達」は誰にとって望ましいのか? 「正しい発達」はどう判断されるのか? 発達保障論のレポートを聴きながらそういった疑問を持ちました。

大人に向かって発達していく筋道は実に多様だと思います。共通性はあるにしても、それをすべての人に適用していくのには無理があると思います。健常者を中心とした社会の中では健常者の在り様が基準や標準になりますから、健常者の大人に向かっての筋道が望ましいものとなっていきます。健常者の大人にどう近づけていくのか、そのための科学に名を借りた研究に見えました。それは突き詰めると今の健常者の社会、大人の社会に都合の良い障害児を育て上げることにしか思えませんでした。

その当時、よく聞いたフレーズが「障害児の全面的な発達を保障する」です。子どもの障害の種類と程度、そして発達段階に応じて適切な教育の場を保障すること、そしてそのためには発達段階を見極める医療の専門家の力が必要であり、それに応じた適切な指導を行う教師の役割が重視されました。障害の早期発見、治療、相談のための条件整備、医療や心理学、教育の連携が強調されました。中でも医療との連携を特に強調するものがありそれはレポート内容の用語にも反映されて、カルテ等の用語が使われたりドクターの助言

といった表現がありました。それはあたかも科学的を装うかの如く見えました。

その結果、「Aの障害は〇〇であり、IQは○○、知能は〇才程度、問題のある行動としては‥」といった事例発表が繰り返されていったわけです。それは発達保障論の側に立つ人たちだけでなく特殊教育振興会をはじめ各種の障害児教育の研究会で見られたことだと思います。特殊学級の担任になって最初の頃はそういったスタイルのレポートが当たり前だと思っていました。

そこで語られるのはA個人のことであり、障害やIQがこんな状態にあるAをどう引き上げていくか、障害の軽減や克服を目指しての実践が発表されるのが典型でした。Aの次はBCと続いていくわけです。そこでは障害児個人のことに限定されることが多く、障害児対教師の関係の枠内にとどまることが大半でした。集団のことが語られても、それは特殊学級内の集団作りが大半であり、わずかに交流によって他の集団がエピソード的に語られるくらいでした。「温室づくりをしているのではないか?」と疑問を持つのに時間は要さなかったように思います。

できることが増えていくのは望ましいし喜びである、できないよりできる方がまし、それは確かです。しかしそれがすべてではないことに気づきたいと思います。

 

6.「できる」ことの幻想

 三重県の地方都市でも共生共学の芽が出始めたころは、親たちは学校や就学指導委員会に対して「とにかく同じ年齢の子どもたちと一緒にいることが大事」「特別に何かをしてもらわなくてもいい」と繰り返しました。しかし年月を経て普通学級への入級が少しずつではあるが容易になっていくにつれ、親の訴えは変わっていきました。「みんなと一緒にいさせてほしい、しかし力はつけてほしい」 

つまり普通学級の中での手立てを要求することになっていきました。まずは一緒にいること、それが実現したら何らかの力をつけてほしい。こういった流れがあることを知り、当たり前の要求だとは感じたもののしっくりといかなかったのも事実です。

 普通学級への入級が実現した時「一緒にいることが大事で何らかの手立ては必要ない」という物言いをしましたが、学校という場で子どもたちの関係ができていけば何も起こらないということはないだろうと思っていた節もあります。しかし特別な手立ては求めませんでした。それでも本当に少しずつですが子どもたちとの関係、教師との関係が変化していった事実があります。それは結果であって最初から求めたことではありませんでした。

 

 しかし時は移って、普通学級への入級が実現していく中で、「何かはしてほしい」という要求は生まれていきました。その根底には「発達」についての幻想があると思います。

大谷恭子さんの話を聴いて(4)

2024.9.4

 発達保障論の立場に立つ人は何よりも発達を目標としているために、「どう発達させるか?」という方法や技術論に陥っているように私には思えました。誰しも発達の途上で躓くことはありますから、「その壁をどう乗り越えるか?」は結果としてレポートとなると「こうやってうまくいった」という話が大半を占めることになりがちです。うまくいかなかった場合には他にこんな方法や技術があるといった話になり、新しい方策が組まれていくことになります。当の障害者自身はどう感じているのか、どんな思いでいるのか、それを見ている親や家族はどう感じているのか、どんな思いでいるのか、についてはほとんど語られなかったように記憶しています。ただ時に障害者自身の声や親の声が紹介される場合には自らの成果を強調する余りか逆に障害者の怒りを買ってしまうもの言いも見られました。特に訓練や教育の成果として「人間らしいからだを獲得した」とか「笑顔を取り戻した」といった表現には強い抗議がなされました。

 全国教研で忘れられない場面があります。あるレポーターがこんな話をしました。

「ほとんど発達が望めない、というより後退しているとしか思えない生徒に発達のためと称していろいろな訓練を中心とした教え方をしてきた。生徒はそれに耐えて頑張ってきたが成果は望めない。それでよかったのか?」 

そういった意味のことを述べて俯いてしまいました。彼はその場にいた障害者から徹底的な批判をされていました。「いつまで訓練したらいいのか!」「死ぬまで発達しなきゃならんのか!」といった怒りの声にうなだれながらじっと聞き入っていました。障害者自身の声に初めて自分自身の実践してきたことに思いが至った様子でした。後でお話を伺ってみると、彼は決して発達保障論に与しているわけではありませんでした。障害児教育に関する研究論文や教育方法に関する本を読んで得た知識をもとに、誠実に生徒に向き合い自らの実践を積み重ねてきたといった風でした。こういった場面には何度となく出合ってきました。

こういったどちらの側にも与しないレポーターはたくさんいました。特に三重県などの地方の研究集会では「発達保障論派」対「共生・共学派」といった図式はなく、自分自身が初めて参加した教職員組合の研究集会は特殊教育振興会の研究大会と大きな違いはありませんでした。生活単元学習や作業学習について、自分の学級の子どもたちの紹介をしながら実践を語るという形式でした。発達保障論をバックボーンにしていない人も「発達」を語ることには何の疑いもなく、子どもたちの学習能力を伸ばすために社会に適応できるために日々の発達を信じて実践を重ねるといった風のレポートが大半でした。

「特殊学級で温室づくりをしているのではないか?」 そんな思いに駆られていた自分は拙いレポートを持って県の研究集会に出ました。そこで助言者の話を聴くうちに、色々な疑念が晴れていきました。そこからが始まりです。

それまでの研究会で聞く報告では、子どもたちの紹介もIQや障害名が主で、名前もAさんBさん、「自分の学級の子どもたちはこんなにも大変」といったものが多く、いやな言い方ですが他校との「重さ比べ」をしているようで抵抗がありました。初めて参加した県の研究集会で「子どもを語る」「生活を語る」とはどういうことか、学級の外にある差別にどう向き合うか、子どもたちは本当に特殊学級に来たかったのか、等々の助言を聴いて目が覚めたような気分になりました。この時の助言者の方との出会いが共生・共学の道の第一歩でした。

「発達保障論派」対「共生・共学派」の構図は、当時の特殊教育に携わる大半の教員には無縁のことであり、特別支援教育に名を変えた今も変わりはないようです。さらに残念なことに共生・共学の道を進もうと考えている教員が増えているようには思えません。その根底には発達保障論に与しない人たちもベースは発達保障の考え方にあるからだと思います。

例えば、「すべての子どもが発達の可能性を持っている。その子どもの発達の筋道を可能な限り明らかにして、その筋道に沿って実践を展開する。そのことにより次なる実践のあり方をさぐっていける。学校においては、どんなに重い障害があっても教育によって発達していくことを明らかにしていく」といった論があります。

こんな風に言われれば多くの教員は否定はしないだろうと思います。これは発達保障論の人たちにも特殊教育論の人たちにも共通することだと思います。両論とも根底にあるのは同じものだと思いましたが、当時このことを指摘するとどちらの側の人たちからも否定されました。おそらくそれは今も変わりないと思います。

教育を志す人たちに根強くある発達への信奉のようなものが、運動として論として展開されていく時に何が問題になるのか。何が一部にしろ障害者の人たちの怒りを買うのか。

発達保障論の源流とされるものは、「この子らを世の光に」にあるように学校から排除されていた子どもたちの教育実践に取り組んだ施設でした。当時「治療に値しない」とされた重症心身障害児の発達の可能性を訴え、障害児者の生存と発達を明確に権利の問題としてとらえ返したことの意義は大きいと思います。障害児の不就学をなくすこと、すべての障害児の教育権を保障すること、重症心身障害児に対する療育の実践、これらには異論もありません。問題はそこから先のことです。

研究集会で報告される成果の発表は発達の筋道の共通性に沿った実践であり、うまくいった場合には問題はないが、そうでない場合には発達のためのより適切な方法が求められる。その実践の繰り返しを主張する人たちが私には「発達のさせ方」に熱中している教員集団にしか見えませんでした。その実践が時として障害者への強要となったり抑圧となっていることに気づいて欲しいというのが障害者の声ではなかったかと思います。発達のための教育や訓練があたかも障害者を「研究のための存在」として扱っているようにしか思えませんでした。

 すべての人に発達の権利がある、だから発達を保障するための取り組みが要る、しかしそのためには特別な場が要る、そこで障害児だけを分離して教育する、そこで行われていることが障害者にとっては如何に抑圧的なことか、そのことが問題なのだと思った。

 

 

 

大谷恭子さんの話を聴いて(3)

2024.8.14

4.何をするべきか。「発達」について 

大谷さんの言われる「発達保障論と共生共育論を融和させること」について、もう少し考えます。大谷さんの講演は膨大な内容のものであったため、この両者の融和も「何をするべきか」で挙げられた5点の提起の一つであり、時間の都合もあってか詳しくは述べていただけなかったように思います。

因みに提起された5点は以下の通りです。

(  インクルージョンは基本的人権であることの認識をもつこと。インクルーシブ教育は教育方法ではなく人権上不可欠なもの。

    制度改革を進めることー学籍を地域の学校に一元化すること。就学支援委員会(専門家)を改組すること(ex障害当事者とインクルーシブ教育の専門家を入れること)

    政府から独立した救済機関を実現すること

    (インクルーシブ教育以前から)日本に固有にある共生共育の教育実践を継承しひろめること

    発達保障論と共生共育論を融和させること  )

 

 いずれもが大きな課題ですので、その一つ一つについて詳しくお聴きできる場があればと願っています。

 大谷さんの話の内容からは外れるかもしれませんが、もう少し「発達」について考えてみます。

辞典で「発達」を調べてみると「からだ・精神などが成長して、より完全な形態や機能をもつようになること」(大辞泉)となっています。ということは「より完全な形態や機能をもつようになる」ために、どのような心身の成長があるのかということになります。

子どもから大人になっていく過程で求められるものが発達だとすると、それは当然必要なことになりますから誰もここでの発達を否定することはないでしょう。子どもから大人になっていく過程で必要とされるものが「発達」だとするならば、それはより完全な形態や機能をもつために身体の自然な成長と共に獲得していかなければならない力の問題が生まれてきます。力を獲得していく段階では能力として「できる」「できない」で判断され「何かができるようになる」ことが求められ望まれるということになります。

学校の中では「できる」「できない」で判定されることが主となっていきます。学年が上がるにしたがってできることが増えていき、社会に出ていくための準備をしていくということになります。ある意味では社会に出ていくためにできることを増やしていくことで発達・成長していくわけです。「できる」「できない」で言うと、子どもたちは学校で勉強することによって「できること」を増やしていくわけです。足し算ができる、漢字で名前を書くことができる、逆上がりができる、こうやってできることが増えていき大人になっていくわけです。そうなると「できる」ことは良いことで「できない」ことは良くないことになっていきます。私たちは「足し算ができるように頑張れ」とは言いますが、「足し算はできなくて良い」とは言えません。

よく「できないよりはできた方がまし」という言い方をしてしまいます。確かに「できないよりは、できた方がまし」なのかもしれませんが、そう言った時点で「できる」ことだけが望まれ「できることを良し」とする社会を作っていくのではないでしょうか。

「発達」という言葉の呪縛はこんなところにあるのではないでしょうか。

 

もう30年以上も前のことですが、育児のための雑誌が脚光を浴びて書店の店頭に溢れ子どもの発達を診断する表が掲載されて話題になったことがありました。子どもの生育の年齢や月数を軸に、ことばや食事、歩行や遊びの基準が示され、それができないと「発達が遅れている」とされる発達診断表のようなものでした。それはあくまでも健常児を基準としたレベルで、この年齢ならできる子が多いという相対的なものであるのですが、表となって見せられると親は「できて当たり前」と思い込んでしまいます。ですからそこに達しない子どもは「遅れがある」「問題がある」というように思われてしまいます。そして「この年齢なら、これができなくてはならない」という強迫観念のようなものを親に押し付けていきます。

 その当時は特に「子どものことばの遅れ」を気にする親が多かったように思います。特に早い段階での検診で子どものことばの後れを指摘された親たちは焦り、いろいろな所に相談に行ったり病院の診察を受けるために飛び回ります。私も何度か相談を受けたことがありますが、焦った親たちは「この子はこのまま喋れないんじゃないか」と思ったり、「このままでは園や学校にいけないんじゃないか」と悩み始めます。「こちらの言うことはわかっているんだから、そのうち喋れるようになるよ」と助言すると安心する人もいれば、無責任だと言わんばかりの顔をする人も見えました。実際にはある時期になって急に饒舌になった子どももいましたし、ゆっくりとしたスピードで喋ることを始める子どももいました。ある日突然一気に長いフレーズで喋り始めた子どものように、想定された発達の段階を経ずに急激に発達することは稀ではありませんし、そもそも発達には人によってアンバランスなところがあって当たり前です。

 このアンバランスを本当に自然なものとみなし、遅れをどう余裕をもって見られるか、難しいことですが子どもの発達や成長を考える上で大事なことだと思います。実は、発達保障論の人たちに感じる違和感はこの辺りにあるような気がします。どうしても論に縛られた窮屈さを感じました。

 

発達保障論の人たちの取り組みでどうしても納得のいかなかったものがあります。それは発達の筋道は明確にあり、その筋道に沿って実践を積み重ねていくことが障害児のために必要なことだとする論でした。それぞれの段階での壁というものがあり、それを乗り越えなければ失敗とされ、乗り越えるために努力を続けなければならないという論法でした。(つづく)

大谷恭子さんの話を聴いて(2)

2024.7.20

2.共生共学、運動の流れ

 三重県の共生共学の流れをまとめておきたいという思いが生まれたのは、いま特別支援教育を専攻する学生が「障害児を普通学校へ」という運動があったことを知らないという話を聞いたからです。考えてみるとステップワンで実習をしたりアルバイトをする学生と話していても、そのことは感じます。ステップワンの原点は「普通学校・学級を目指した障害児と親の会」だと話しても不思議そうな顔をするだけで、そういった話を聞いたことがないようです。特別支援教育を専攻する学生たちなら発達保障論と共生共学論の理論的対立くらいは知っているだろうと思いましたが、そうではありませんでした。

卒業論文のためにステップワンに入り、「知的障害者が街の中で共に生きる」視点から幅広く全国青い芝の会の運動まで取り上げた学生は医療・看護系の大学の人で、特別支援教育とは無縁でした。逆に特別支援教育を専攻する学生はそういった運動論的なことには余り関心が無く、教育の方法論や技術の方に目が向いているようです。よく考えてみると特別支援教育を学ぶということは既に分けられてしまっている子どもたちの教育に限られているわけで、そこで「分けるな」といった議論にぶつかることはないのでしょう。この現象はかつての大学の特殊教育に関わる学科でも同じことですが、県内でも一部には共生共学を支持する動きもありました。また当時は共生共学の考え方が養護学校の一部の教員の間で広がり、真摯な実践が繰り広げられ幾つかのレポートが生まれました。その卒業生である教員が大学に影響を与えたということもあると思います。その後は残念ながら徐々に途絶えていったのではないかと思います。

いま大学で特別支援教育をめぐるこの間の理論的対立の歴史を学ばないとしたら、そこで展開されるインクルーシブ教育は本来の意味を理解されないのではないかと危惧します。

 

3.何をするべきか

大谷さんの話の中で「何をするべきか」というテーマがありました。そこで発達保障と共生共育が取り上げられました。

 シンポジウムに参加する前にいただいたレジュメで気になっていたことが「発達保障論と共生共育論を融和させること」でした。このことについて当日はどうしても聴き漏らしてはいけないという思いで聴いていたのですが、結局よくわかりませんでした。

なんとなく二つの文脈でとらえてみてどちらかなのかと考えてみました。一つは「発達保障論派と共生共育論派が派を超えて融和することが可能か?」ということ、もう一つは否そうではなくて「発達保障論と共生共育論が理論として融和することが可能か?」ということ、そのどちらなのか未だにわかりません。おそらく後者なんだとは思います。「派」としての両者なら融和は到底叶わないことでしょう。この対立は単に教育や思想的なものだけでなく、政治的にも対立し現在に至っているからです。発達保障を掲げる全教(全日本教職員組合)と形としては共生共学を掲げる日教組(日本教職員組合)が折り合うことはまず考えられません。(大谷さんは「共生共育」という言葉を使っていますが、ここからは自分が使い慣れた「共生共学」という言葉を用います。記憶では「共生共学」が一般的になるまでは「共生共育」が使われていたように思います。)

発達保障の考え方の人たちは「どのような重い障害があっても、子どもは無限の可能性を持っている。その発達を保障するために適切な条件整備を権利として要求する」という運動論を展開します。この考え方からは、障害児は特別な場所で健常児とは分離して教育する方が望ましいとなり、分離教育を正当化することになります。

1980年代から日教組教研(全国教研)の障害児教育分科会に参加し、その対立の在り様を見てきた者として派が融和することは考えられません。共同研究者として実際に現場にいた大谷さんなら余計にその思いは強いことでしょう。私は全国教研で発達保障論に反対する障害者自身のナマの声、「いつまで発達しなきゃならんのか」「養護学校なんか行きたくなかった」「死ぬまで訓練させられるのか」を聞きながら変わっていきました。その声は生涯忘れられない声として今も心の奥底に残っています。自分自身がそうであったように、障害者の声を聴きながら考え方が揺らぎ変わっていったレポーターに何人も出会いました。

対立が激しかった頃、いわゆる「共に」派(共生共学論派)が三重で増え始めた当時の教員仲間で「『発達』という言葉が悪いんじゃないんだけどなあ」というつぶやきがあったことを思い出します。自分自身、共生共学の考え方に惹かれるようになるまでは、深い考えもなく「発達」という言葉を使っていました。しかし発達保障論派との対立が明らかになってからは、「発達」という言葉をなるべく使わずに済ませようとしていることに気づきました。そこでは言い換えるようにして「成長」などの言葉を厳密な検討もせずに使っていたようです。「発達」の概念そのものについてきちっと考えてこなかったように思います。ここには発達保障論派との対立ゆえに、敢えて「発達」という言葉を使わないでおこうとする姿勢があったようです。そう考えると「発達」という言葉には問題はなく、「発達」を「保障」するために健常児とは分けて教育する「分離教育」に問題があることは明らかです。

子どもが発達していくためになぜ健常児と分けて教育することが望ましいのか。それは発達について正常なものとそうでないもの、健全なものとそうでないもの、望ましいものとそうでないものに区分けされた考え方が根底にあるからで、そこから正常な(健全な、望ましい)発達のために特別な教育が必要となるという論です。変わるべきは障害児それぞれの個人であり、そこで求められるのは個人の努力や頑張りでした。発達のために必要だとされる訓練についての相談は特に辛い記憶として残っています。うまくいかなければ本人や親の努力が足りなかったいうことになり、そのことで自分を責める障害者や親の話をよく聞きました。みんな「良くなる」と信じ懸命に努力した結果が失敗ととらえられ、からだの痛さや辛さを乗り越えた過程は何だったのかと述懐する人たちを前にして教師や医師は何を感じたのでしょう。

「発達は適切な教育があって実現していけるものであり、医療や福祉と正しく結びつけた教育が必要である」とされる論は、個人の正常な発達のために教員が用意したプログラムを強制するという構図を持っています。それがどれだけ子どもの思いや願いを軽んじるものだったのか、「分けられたくなかった」「養護学校に行きたくなかった」という発言が証明しています。障害児自身の思いや願いを無視しても教育という営みを続けてきた者たちに対して厳しい批判が展開されたのが全国教研や全同教研究大会でした。

派としての融和が不可能だとすると、「理論として融和」ということになるのでしょう。「融和」という言葉が適切なのかどうかは疑問ですが、大谷さんは「発達」の概念をしっかりと整理をして共生共育に取り込んでいけばという思いなのでしょうか。

私は教育に携わる人たちは「発達」という言葉の呪縛からは逃れられないと思います。それは教育と言うものが、子どもたちが発達し、成長していくことを是として考えないと成り立たないからです。(つづく)

 

 

 

 

大谷恭子さんの話を聴いて(1)

2024.710

 

1.二つの裁判から思うこと

 2024629日(土)、大阪の弁護士会館で大谷恭子さんのお話を聴きました。

「インクルーシブ教育の実践と地域で生きる権利in大阪~障害者権利条約2022年総括所見の実現を目指して~」と題されたシンポジウムが開催され、大谷恭子さんが基調講演として「人権としてのインクルーシブ教育」の演題で話されました。

 1979年、東京の金井康治さんの自主登校裁判(1977年から1982年にかけての6年間にわたる闘いによって、脳性マヒ者である金井康治さんは養護学校から弟たちも通う地元の学校への進学を勝ち取った裁判)に関わったことから、大谷さんは障害児が普通学校就学を目指す共育共生運動に出会います。この裁判はちょうど養護学校の義務化の年であり、障害児が地域で共に育ち共に生きる立場を鮮明にした象徴的な裁判となりました。

その後、金井康治さんは地域の公立高校への進学も果たし、小・中学校の普通学校就学から高校へという運動に希望を与える大きな役割を果たしました。と同時に運動が象徴的で大規模であったことから、さまざまな面で大きな波紋や影響を与えることになりました。   

高校卒業後、金井さんは地域で自立した生活をおくりますが、慢性アルコール性肝障害が原因で病死します。このことについて大谷さんは「地域で生を全うすることの大事」を訴え、「施設に入っていたらお酒を飲むことも許されることはなかっただろう、地域で生きることは負担を伴うが自由を勝ち取ることになる」と話されました。「お酒が原因で」となると健康の問題が優先され、自由の問題として取り上げることには異論があるかもしれません。事実そのことで「体が大事」と「好きにさせて」で金井さんの介助者会議は紛糾したとの話もあります。

ただ言えるのは、地域での生活が当たり前となっている私には制約と不自由がまかり通る施設の生活との比較はできないし、金井さんが生涯抱え続けた問題の大きさははかり知ることもできません。だからこそ、あえて「地域で生を全うする」ことの大事を訴えた大谷さんには共鳴しました。

金井康治さんの裁判が始まった頃、1978年に自分は初めて中学校の特殊学級(現在の特別支援学級)の担任になりました。とにかくいろんなことを知ろうと考え、研究と名のつくところへは参加しました。奈良県であった全国同和教育研究大会に参加したのがちょうどその頃でした。そこで初めて障害児が普通学校への就学を目指す運動があることを知りました。特殊学級担任になりたての時期でしたから最初は何のことやら皆目わからなかったのですが、奈良県の梅谷尚司君のお母さんの話は胸に響きました。これが「西の梅谷、東の金井」と東西の運動の象徴となっていたことを知るのはずっと後のことです。

 時を経てのもう一つの裁判、医療的ケア児の就学裁判(川崎医療的ケア児就学裁判)についてでは、「裁判官が子どもの顔を見なかった」という話が印象的でした。保護者よりも専門家の意見を重視した裁判官は、結局のところ医療的ケアの必要な子どもの顔を見ることなく判決を下したということなのです。当人の顔も見ないで裁判という仕事に携わる人は何を考え、何を感じたのだろうか? 何かしらの後ろめたさだったのだろうか、否そうではないだろうと思う。障害者の現実に目を背けるしかない健常者エリートが感じる不快感、忌避感なんだろうと推測します。そしてそれは決して当の裁判官だけの問題ではなく、私たちの問題なんだろうと思います。そのことを大谷さんはご自身の体験も含めて話されました。

 障害児、障害者との生活を経験したことのない人は、時にあからさまに嫌悪感や不快感、忌避感を表します。一歩街に出ればすぐにでも出遭う現実です。

私はよく障害者との生活では「慣れることが第一」と話します。例えば永年連れ添った家族や支援員なら何でもない生活の現実が、他人にはそうはいきません。家庭、作業所やグループホームでは当たり前の生活の一コマが異様に受け止められてしまい、時には極端に差別的な言動を行う健常者に出遭うことになります。私たちが積極的に街に出ていく意味はまさにここにあります。少しでも障害者との生活を共有することにより、一緒にいることが当たり前の社会を創っていかないと、障害者の顔も見ないで判決を下す裁判官を生み出し続けることになるのでしょう。

 

2.共生・共学、運動の流れ

 今、三重県の共生・共学の運動の過去の流れを少しずつまとめていければと考えています。自分が関わった時代は1980年代から90年代の初めのころです。ちょうど発達保障か共生共学かで現場が紛糾していた時代です。全国同和教育研究大会や全国教研に出かけることが多くなり、全国から多くの刺激や教えを受けた時代です。

 大谷さんは「1970年から80年代にかけては圧力団体の運動によって普通学級に入っていけた時代だった」と述べられ、「運動の力を借りられなくなった1980年代後半で後退していった」と回顧しています。その原因として、差別糾弾闘争がなくなり「それはおかしい」がなくなっていったことを取り上げられました。忖度が多い時代になったとも言われました。確かにものが言い辛くなったという閉塞感は多くの人が感じていることではないでしょうか。私にとっては、大谷さんがここまで差別糾弾闘争のことを語られるとは正直思っていませんでした。よほどの想いがあってのことだろうと感じました。

 

 また、運動の力を借りられなくなった今こそ制度改革が必要だという論には全くその通りだという思いを強くしました。運動の力だけの問題ではないと思いますが、どう制度改革を進めていくのか、はたして現場にそれだけの力があるのか、極めて難しい課題だと思います。様々な運動が弱体化したり衰退していく中で、絶望的にならずにその力をどこに求めていくのか議論を重ねていきたいと強く思いました。(つづく)

2024年2月3日発行

「ゆめごよみ風だより」臨時号です。

写真なので読みづらいと思います。ごめんなさい。

必要な方にはコピーをお届けしますので、お知らせください。

アイリッシュハープの演奏会

2023.6.26

 

  伊勢市の大型商業施設ララパークにある伊勢市社会福祉協議会のサテライトげんここるーむでアイリッシュハープの演奏会がありました。

 昨日の日曜日、日中一時活動の一環で演奏会に参加しました。エンジェルさんというグループの演奏で、キラキラ星やアメージンググレイス、月の光などの演奏に酔いしれました。ゆみさんは感謝の踊りをちらっと見せました。エンジェルの皆さんはとても喜んでくださいました。

   かわいい小学生のお二人が歌も披露してくれました。季節にちなんで七夕の曲などを歌ってくれました。毎月第4日曜日にありますので、ぜひご参加ください。午後2時から3時までです。本当に癒されますよ

 

 

共生社会バリアフリーシンポジウムin伊勢

2022.9.10

1. 心のバリアフリー

基本は「知ること」「慣れること」

バリアフリーという言葉が全国紙に初めて登場したのは30年前、1992年のことです。その頃、ヨーロッパでの生活が長かった帰国子女から「日本には障害者がいないのか」と言われたことがあります。欧米では街でよく見かける障害者が目に触れないことを言ったのです。今でこそ物理的なバリアフリーは進み車椅子などを見かけることは増えましたが、歴史的にも施策が遅れた知的障害や精神障害の人たちの社会進出は遅れたままです。

知的障害者やその家族の人たちと話すと、街に出ての最大のバリアは「他人(ひと)の目」だとおっしゃられます。自分自身も経験がありますが、例えば大きな声を出す人と歩いているとジロジロと見られたり指でさされたり、見られるだけならまだしも心ない言葉が向けられることもあります。どうしてこういうことが起きるのでしょうか? それは街の中で知的障害や精神障害の人たちが当たり前に暮らす姿が見られないからです。

幼い頃から身近に障害者がいた場合、マイナスイメージが少ないことから考えると日常的に触れ合える仕組みが必要です。

基本は障害について「知ること」、障害者と一緒の生活に「慣れること」です。

私たちは知るプロセス、慣れるプロセスをどう創り上げていくかを考えていく必要があります。障害者施設にいると「ここで働きたい」という思いをもって体験に来る方がみえます。ありがたいことなのですが、中には「こんな筈じゃなかった」とばかりに短時間で切り上げてしまわれる人もいます。自分が思い描いていた障害者像と違ったのだと思われます。

そのために実際に作業所で働く人やグループホームで暮らす人、一人暮らしをしている人などの現実の声を聴いたり、生活しているそのままの姿などを紹介していく、そんな取り組みを進めたいと考えます。グループホームで暮らす女性を取り上げて記事にした全国紙がありますが、様々な媒体を通じてナマの声を届けていきたいと思います。また、グループホームを活用した子ども食堂など、共に過ごす空間を創り出すことも大切です。

 

2. インクルーシブ社会の実現に向けて 

先ずは言葉を広めること。

インクルーシブ教育を推進することと同時に、教育にとどまらず「インクルーシブ」とう言葉を広め、その意味が理解されるような施策を組んでいくことが大事です。

例えば、子どもの「インクルーシブって、なあに?」の問いに対して、「色んな人が一緒に暮らしていくことだよ」とか「仲間外れをつくらないことだよ」と大人が答えられる地域社会を作っていくことが大切です。今、伊勢市ではインクルーシブ公園の構想があります。絶好の機会だと思います。この機会にインクルーシブという言葉が広がっていけばいいなと思います。この言葉が広がり、「これからの社会はこうなっていくんだ」という希望を子どもの頃から身に着けていってほしいと願います。

また伊勢市では障害者サポーター制度を設けています。サポーターの人たちを中心にイ

ンクルーシブについてのハンドブックなどを作成し啓発に努めることも方策だと思います。

 

3.福祉は「策の宝庫」

私は「福祉は策の宝庫」だと考えています。方策や対策の「策」です。

すべての人が幸せになるために策を講じていく必要があります。その理念は「みんなが気持ちよく安心して暮らせる社会を創る」ということです。私は学校長の頃、子どもたちに「みんなが気持ちよく安心して通える学校を創ろう」と呼び掛けていました。「みんなが」というのは、一人の例外もなく,一人の漏れもなくということです。

 生徒が100人いて99人が気持ちよく安心して通えても一人がそうでなかったら、それは

「みんな」ではありません。「みんなをめざそう」と呼びかけました。当然のように実現のできない夢でした。しかしそう呼びかけることによって意識は変わったと思いました。

コロナ禍で生活困窮の相談を受けると、家族に障害者や高齢者の問題があったり、単に

経済的な問題だけではないことに気づかされます。あらゆる問題の入口にあるのが相談で

す。今、相談にも複合的な多様な視点を持った策が必要となっています。生活困窮の相談から障害の相談につなげ,高齢の相談につなげ,成年後見の相談につなぐ,そんな総合的な相談窓口が必要です。

社会福祉協議会では様々なサービスを展開しています。子どもから高齢者、障害者、ひきこもり、生活困窮、成年後見、災害ボランティアなど、あらゆる生活の場面でみんながつながり合う社会を目指してきました。そのノーハウを活かして「こんなサービスやしくみがあったら」と願う策を創り上げていきたいと思います。今、新たな共生型のサービスを模索中です。その時にインターセクショナリティの理論的枠組みを活用したいと考えています。

 

4.新しい共生のしくみの創造

人を一つのアイデンティティカテゴリーに当てはめずに複雑なアイデンティティの集合

体として総合的に理解するための概念としてインターセクショナリティが注目されています。例えば、心身に障害があり、女性であり、高齢者の親と同居しており、家計が苦しいとなると、単に障害だけの問題にとどまりません。複合的に問題が交差してくるのです。日本語では「交差」という言葉が使われますが、まさに幾つかののアイデンティティが交差することによって、複雑な集合体が生まれるということになります。しかしこれは私たちがかねてより気づいていたことで、障害の問題が障害そのものだけで完結することはほぼありませんでした。

この図では4つの楕円が重なることで、11の特有の交差が生まれることを示していま

す。個人に当てはまる属性をこうして複合的にとらえると、様々に交差してくることが分かります。

 

いま国は共生型サービスを進めようとしています。これは障害者と高齢者の枠を超えて新たなサービスを模索するものですが、もっと様々な問題を総合的に考えられる方策が求められていると思います。こういった新たな枠組みのサービスを自治体独自で作り上げていけないか、伊勢市と共に考えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

「普通に死ぬ ~いのちの自立~」上映会        & 貞末麻哉子監督のトークイベント

2022.6.17

 

一昨年の秋、名古屋シネマスコーレで映画「普通に死ぬ」を観て、この映画を伊勢でたくさんの人に観てほしいと思いました。上映会に加えて貞末監督のトークイベントを企画し直ぐにも実現したかったのですが、コロナ禍にあったため企画は何度も中断して今に至ってしまいました。企画延期のために監督と会社の皆様には大変ご迷惑をおかけしました。

この映画は医療的ケアが必要な重い障害の子を持つ親の会が、地域で生きていくために場と人を創っていくドキュメンタリー映画です。医療的ケアを必要とする人を支えてきた親や家族が倒れるとどうなるのか? 残念なことに障害者や高齢者の「介護は家族がするのが当たり前」とされる風潮が蔓延るこの国では、家族に重い負担がかかっているのが現実です。どの親にとっても自分の亡き後を考えることは大きな課題として迫ってきますが、医療的ケアの必要な人が残されるということはどういうことなのか? 家族や支援者は理想としてではなく、現実としてどう向き合えばいいのか? 「共に生きる」を目指すステップワンにとっても重大な問題です。

障害者の「親亡き後」問題が大きくクローズアップされています。ただ障害者の親御さんたちと話す時、この問題を強調するのには抵抗があります。親に対して「親亡き後」を迫るのは「あなたたちで考えなさい」と言っているようで辛いものがあります。では、みんなで考えて行くにはどんな方法があるのか? この上映会もその一つの方法にしていきたいと願っています。

自分自身がこの映画で深く感じいったのは、後半の展開で「誰もやらないなら自分がやるしかない」といった個人の覚悟のようなものを見せられたことです。制度や組織が充実しても「結局は人なんだなあ」と妙に納得してしまったことが幸いなのか不幸なのか‥‥

 

 とにかくたくさんの人に観ていただきたいです。申し込みは伊勢市重度身体障害者ディサービスセンターくじらにお願いします。

知的障害者が地域の中で「共に生きる」を実現するために

-生活介護事業所でのフィールドワークを通して-

 

    植田 莉那

 


本研究は、フィールドワークおよびインタビューをもとに知的障害者の地域生活の実現のための、人あるいは地域との関係性の構築について検討を行った。日本における障害者をめぐる政策は当初、貧困対策として始まり、その歴史の中で徐々に支援されるべき対象とされるようになった。そのなかでも知的障害者福祉は身体障害者福祉よりも大きく遅れをとっていたのが現状であった。障害者の地域生活が謳われるようになったのは、青い芝の会にみられる障害当事者による解放運動が盛んとなった196070年代であり、ノーマライゼーションの思想をもとに地域社会における生活が重視されるようになった。しかし、知的障害者の自己決定能力や意思疎通の難しさが、地域生活の実現に向けて特有の問題となる。この問題解決のために、フィールドワークにより、支援者と利用者という枠組みを超えた関係性、地域住民との開放的な関係性、脱家族後の家族との関係性について見出した。

 

キーワード:知的障害者、地域生活、自立生活支援

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


.問題の所在

 本研究では、障害者は家族が介護を行う事が当たり前とされていること、また障害者のなかでも知的障害者が地域生活をおこなう上で、自己決定能力や意思表示方法が健常者や身体障害者と異なるため、特有の困難があることを課題とし、知的障害者が地域で生活を送るために必要となることについて明らかにする。方法として、知的障害者の地域生活を支援する生活介護事業所にてフィールドワークを実施し、自己決定能力や意思表示が他と異なる知的障害者が日常生活においてどのように関係性を構築しているのかを明らかにする。

Ⅱ.背景 :知的障害者支援のこれまで

 まず最初に、日本におけるこれまでの障害者支援のあり方が知的障害者にとってどのようなものであったかについて見ていきたい。まず第1節では従来の障害者支援の在り方について、知的障害者を含む障害者支援の歴史的は変遷を見ていく。第2節は、現在の知的障害者福祉を含む、障害者福祉に大きな影響を与えてとされている196070年代の青い芝の会の運動について述べる。第3節では、このような障害者支援を取り巻く現状から、知的障害者にとって特有の問題は何かを考えていきたい。

 

1.   従来の障害者支援の在り方

これまでの日本の障害者施策は「介護・扶養」する家族を前提とする施策であった。家族が家庭の中で障害児・者を「介護・扶養」することが当たり前とした風潮が世の中に広がっていた。歴史的な変遷を見ると、国家としての障害者施策は明治時代以降の近代化の中で貧困対策の中に含められ、進められていたとされる。当初は、貧困対策として進められていたが、徐々に支援するべき対象として障害者というカテゴリーが形成された。障害者が支援の対象となるきっかけとして次のようなものがある。1つは教育制度の設備である。近代国家を目指す日本で、より均質な労働力を求めて教育制度の整備が行われた。その中で制度に対応できない人として障害者が問題視されるようになった。2つ目に戦争である。軍隊の訓練の過程で障害が発見されるということと、戦争自体が障害者を生み出すものとなったということがある。3つめに労働である。近代化は産業化を伴い多くの労働災害による障害者を生み出すこととなった。これらの対策として国家の障害者支援が始まったと言える。

そこで知的障害者支援の歴史的変遷も見てみると、戦前の知的障害者福祉はおおむね民間の手に委ねられている状態であった。戦前、生活保護法の前身としての救護法(1929年設立)が存在し、知的障害者を保護の対象としていたが、障害による生活の困難に対応するものではなく、貧困という状態に着目したものであった。その後、1934年には、知的障害者のための施設(民間運営の全国9施設)が集まり、日本精神薄弱者愛護協会が設立された。これが、現在の日本知的障害者福祉協会となっている。1947年には児童福祉法が成立され、その条文の中に「精神薄弱者施設」と「療育施設」を規定することにより、知的障害者を対象とすることが明記されていた。1949年に成立した身体障害者福祉法は、その後の障害者施策の基盤となった一方で知的障害者のための施策が遅れを取っていることが明らかとなるものであった。身体障害者福祉法が設立にいたる過程で精神障害や知的障害者を含む案もあったが実現しなかったと言われている。1950年には精神衛生法が成立し、知的障害を精神障害の一種として規定しながらも、実質的には知的障害者の支援は含まれていなかった。身体障害者福祉法が成立し、身体障害児は18歳になれば、規定されている施設への移行が期待できたが、知的障害児は18歳を過ぎると家族の介護・世話になるか、生活保護法の救護施設に入るかしか選択肢がない状況であった。

このような事実は知的障害の施策が遅れをとっていることが明らかになったとともに、家族が介護することが当たり前とする風潮を助長するものであったと言える。こうした中で、知的障害者のために動いたのが、知的障害がある子どもをもつ母親たちであった。1952年に精神薄弱児育成会を設立した(現在は「全国手をつなぐ育成会」と名称を変更し活動している)。この精神薄弱児育成会は、母親同士が繋がり、支え合うだけでなく、運動体としての側面も持ち合わせていた。育成会は1955年には社団法人となり、知的障害者福祉法の設立をめざす総合立法化、社会保障の充実、義務教育制の実施、自活指導センターの建設、の4つを運動の目標とした。当時の厚生省はこれらの4つの要求を受けて、1957年に精神薄弱者福祉対策要綱()を作成し検討した。1959年には社会事業法の改正により精神薄弱者援護施設を第一種社会福祉事業とした。こうした経緯の中で立法の動きが高まり、1960年に、現在の知的障害者福祉法となる精神障害者福祉法が成立した4)

 

2.   196070年代の青い芝の当事者運動

このような歴史的な変遷からみると、知的障害者福祉は身体障害者福祉よりも遅れをとっていたが、身体障害者が行った制度改革に向けた当事者運動は障害者福祉全体に大きな影響を与えていたことは事実である。

この当事者運動の代表が青い芝の会と呼ばれる団体であり、1957年に結成された脳性マヒ者たちの団体である。青い芝の会は1960年代の政府に向けた要求運動として、社会復帰を目的とする日本の障害者福祉は軽度障害者対策にしかならないと批判し、稼働能力のない重度障害者のための施策の要求を行った。このころ、重度障害者のための生活の場の確保として施設の設立が優先課題とされ、地域での生活とは程遠いものであったと言える。しかし、60年代後半では、地域社会における生活が重視され、ノーマライゼーションと同様の考え方がされるようになった。青い芝の会の要求運動は施設設立から地域で生活するための住宅対策へと変化していた一方で政府は施設収容主義の福祉政策を強力に進めていた。

1968年には重度心身障害児者のための施設として東京都立府中療育センターが設立され、東洋一の近代的設備を誇るとされていた。ここの施設における処遇問題が明らかとなったのは、19695月の青い芝の会の総会においてであった。入所者たちは、厳格な規則による管理とプライバシーの侵害、入所時に行われたとされる裸の写真撮影、男性職員が女性入所者の入浴介助をするなどの処遇、また障害者に対する職員のいじめや嫌がらせなどの施設における問題点を総会で訴えた。この施設の在り方を問い直す、入所者の処遇改善要求を発端とした運動は、府中療育センター闘争と呼ばれ、1969年から74年の5年間続いたと言われている。

この府中療育センター闘争が1970年代の青い芝の会の運動に及した影響は大きく分けて3つあり、まず第1に「施設改善論」と「施設否定論」の二つの考え方が生まれたことである。ここでの「施設改善論」において、小規模施設を地域の中に作る方法、あるいは、施設運営に障害者を参加させる方法、が考えだされた。欧米のノーマライゼーション運動で提唱されていたグループホームや当事者運動の考え方が、日本の当時者運動の中で考えだされたことは地域生活の実現に向けての大きな影響であったと考える。第2の影響として、施設の職員は障害児にとって管理者・抑圧者となり、歴然とした上下関係の中で日常生活が行われていたことによって不信感が生まれたということである。第3の影響として、健全者の支援の在り方である。要求運動が健全者のペースで進められ、障害者の意志が無視されてしまうという傾向があった。

このことを受け、青い芝の会は、運動の主導権は必ず障害者が握るということを鉄則とするようになった。また、障害者同士で重度者と軽度者が対立することもあった。これに対しては、より多くの困難を抱えている重度者の視点を運動のなかで重視していくという方針が会のなかで定められた。

このような障害者運動の中で出てきた問題は施設の中だけでなく、家庭の中でも発生していた。障害者運動のなかで出てきた家庭の中の問題の1つとして、親と子の関係性による問題があった。代表的な出来事として、19505月に横浜市で起きた母親による重症児殺し事件がある。二人の脳性麻痺児をかかえた母親が、施設への入所を断られ、2歳の長女をエプロンの紐で絞め殺したという事件であり、1960年代後半、こうした障害者家族の悲惨な事件がマスコミ等で取り上げられ、社会問題になったとも言われている2)。この頃、親が障害をもつ子どもを監視下に置き、責任を取ろうとするような閉鎖的空間が生まれ、親が子を囲い込んでしまうような形が生まれていたのが障害者児を取り巻く現状であったと言える。

このような障害者児の家族介護における問題を指摘したのは、脳性マヒ者等全身障害者問題研究会の第1回であった。ここでは、家族の抱える問題と、家族介護が有する問題性について指摘されている。こうした親の囲い込みからの脱出を主張するのが「脱家族論」という主張であり、日本における自立生活運動において「脱施設」とともに掲げられた目標の1つである。このような運動の主な担い手は全身性の重度障害者たちであり、施設や家族ではなく、地域で、他人に介助を依頼して生活を送ることを主張している。

このような地域生活を主張するなかでさらなる問題として出てきたのが、自立の条件としての所得保障制度の要求であった。第4回脳性マヒ者等全身障害者問題研究会では、自立の基本的条件は介護保障よりも、まずは所得保障制度であるという見解が示された。障害者当事者らは、親やキョウダイ、配偶者に経済的な負担をかけたくないという気持ちから、権利としての保障を政府に求める動きが高まった。198010月東京青い芝の会による呼びかけが始まり、同年11月には、所得保障制度確立を目指す組織が、要望所・意見書を中心に制度改革にむけて動いていた。1983年の障害者基礎年金制度の創設は、所得保障制度の確立に向けた第一歩となった)

 

3.   知的障害者にとっての特有の問題

しかし、身体障害者と知的障害者では自己表現の様式が異なることから、身体障害者が中心となって確立した所得保障制度では、知的障害者が地域生活を送る上では十分なものではなかった。自己決定能力の概念を健常者や身体障害者を基準として考えると、知的障害者はその能力が欠けているように見えるだろう。ここで取り上げる、知的障害者らは、意思疎通が難しく自己決定能力が身体障害者と比べてけっして十分とは言えないことから、身体障害者らが確立した言語を用いて自己決定を行うことができることが前提とされる地域生活(自立生活)、及び脱家族の形を実現するのは容易なものではないと考えられる。一方で、現在、知的障害者のコミュニケーション様式やコミュニケーションの方法の研究が進められている。これらに基づくと、知的障害者が自己決定能力がないと一概に言うことはできない。むしろ健常者や身体障害者とは異なる方法での意思表示方法を持っているように思われる。したがって、これに対して、異なる自己決定能力と自己決定のための新たな方法の検討が必要とされる。

この事について、第章で紹介する施設の職員からこのような事が聞けた。施設の職員が実際に障害者から聞いた言葉として「なんで俺ら障害者は、計画がないと生きてけんのやろう。誰がつくるんや」、「あんたら健常者は、そんな計画的な生活してんのか」という言葉があった。施設の職員はこれを聞いて固唾をのんだという。障害者が計画の中で生きていくことを求められている事に対しての障害者当事者からの批判である。現在、障害者を支援する際には支援計画書の作成が求められる。この支援計画書とは、個別支援計画と呼ばれ、サービス管理責任者または施設の職員が事業所を利用する利用者等の意向、利用者等の適性、障害の特性等を踏まえ、提供するサービスの適切な支援内容等について検討して作成されるものである。上記の言葉は身体障害者が計画の中で生きていくことに対して批判をしたものであるが、知的障害者も同様に支援計画書が求められ、健常者にはない計画の中で生きていくというような環境があるように思われる。

施設職員Aは次のように述べている。これは、施設職員Aがある施設の支援計画書を見た際に、書かれていた内容に違和感を覚えたという出来事である。

 

ある障害者の計画表を見た時に、その本人のニーズ、こんなふうにしたい、みたいなところに、私はこんなふうにしたいと思っている、みたいなことを書いてあったわけ。ところが、その人には言葉がないんです。なので、僕はそれを書いた人に、「あなた、この人はしゃべらないのに、これはどうやって分かったの?」と言ったら、「想像です」と、想像で決められてたまるかと。それで、その本人の気持ちは、それは誰にも分からない。分からないけれども、僕らはそれで余計に難しいのは、知的重度の人というのは言葉がないから、表情であったり、体調の変化であったり、その日の様子からしかくみ取れないというか。そこがものすごく怖いというか、本当にそれが合っているのかどうかということがあると思う。

 

つまり、障害者を支援する際に作成が求められている支援計画書は言葉を発することができない知的障害者にとっては、支援者の憶測でしか書かれていなかったということが実際にあったということである。支援者の想像だけで書かれるような支援計画書は知的障害にとって必要なものなのだろうか。この施設職員Aの言葉は、知的障害者の特有の問題とされる自己決定能力、意思疎通の問題の難しさを顕著に現したものであると考える。知的障害者の支援は国の補助を受けて行われているため、支援計画書の提出は必要な物とされているが、できるだけそこから逸脱する形をとるのが地域生活の実現には近づくのではないかと考えられる。第3章では、このような知的障害者特有の問題を乗り越えながら、知的障害者の地域生活の実現に向けた支援の実際を見ていく。

知的障害者の地域生活の実現に向けて、これまでの知的障害者の政策は遅れをとっていたと紹介してきた。しかし、実現に向けての動きは国全体としてなされるようになってきている。実際の国の動きとしても、1981年の国際障害者年では「完全参加と平等」がうたわれ、ノーマライゼーションの理念に基づいた地域生活が目指されるようになった。また、1989年には知的障害者のグループホームが制度化し、地域移行の実現化が見えるようになったと言われている。知的障害者の地域生活を送る上の課題として、家事や炊事の経験がない、近所付き合いや他者とのコミュニケーションをとることが難しい事が挙げられるが、これらの課題解決に向けて、施設内での少人数による共同生活体験学習など、プログラム化して地域移行を目指すようになった)

これらのように、知的障害者の支援は身体障害者よりも遅れをとっていたこと、また知的障害者の特有の問題から地域生活を送ることは容易ではないことが分かる。一方で地域生活の実現に向け、脱家族を支える様々な支援があるのも事実であり、今日、知的障害者の地域生活に向けた動きは進んでいると言えるだろう。

 

Ⅲ.地域支援の実際:フィールドワークから

 ここからは、実際に生活介護事業所へのフィールドワークを通して、知的障害者の地域生活の実現についての支援を見ていく。本研究では、知的障害者を取り巻く人々との関係性の構築がどのように行われているのか、またどのようなところに課題があるのかをフィールドワークおよびインタビューを実施した。知的障害者支援を実際に体験し、支援という形をこえて、日常生活を共に過ごすことを目的としてフィールドワークを実施した。まず第1節では、対象施設の概要を紹介する。第2節では、地域生活を送る上での関係性の構築を述べる。家族のような関係性について、地域との関係性について、脱家族後の家族との関係性について順にのべていく。そして第3節ではコンフリクトの問題について触れていく。

 

1.   生活介護事業所について

1)  対象者の概要

本研究では、生活介護事業所のNPO法人ステップワン(以下ステップワン)でフィールドワークおよびインタビューを実施した。期間は、715日~1014日で計8回の訪問を行った。フィールドワークでは、日中の作業所での様子を観察し共に過ごした。インタビューはインタビューガイドを用いて半構造化インタビューを実施した。ステップワンは2008年に法人化した施設である。定員10名で、現在の利用者は7名である。現在、「ステップワン作業所」、「新道のお店」、「すてっぷわん川北」、グループホーム(男女一棟ずつ)を活動の拠点としている。地域に拠点を置き、地域に対してオープンな施設である。設立にあたっての歴史的な流れは以下の資料に示す。

 

 

2)  基本理念

ステップワンは基本理念を「障害のある人もない人も地域のなかで共に生きていこう」と掲げ、作業所をするのではなく、生活を楽しむための空間となるような取り組みしている。

 

3)  活動内容の特徴

基本理念をもとに、ステップワンの活動内容の特徴の軸となっているのは作業をしない作業所であることだと言えるだろう。利用者が来たい、楽しいと思ってもらえるような場であること、一人の一人の楽しみを実現できるような作業所を目指した活動を行っている。作業所という空間で、利用者が作業机を囲んで黙々と手作業をするというイメージではなく、障害の種別や程度による「できる、できない」という次元の話ではなく、それぞれに合った生活をしてほしいという思いからこのような活動が行われている。しかし、この「作業をしない作業所」を実現するためには多くの困難があった。作業をしないことで利用者がほったらかしになることや、利用者が望んでいない環境での支援が行われていたこともあった。そのような困難を乗り越えて現在の形が作られている。理想は「利用者と支援員という関係ではなく昼間の生活をしている人の集まりでその人に合った場を創ること」(施設長のBさん)と話されており日々模索しながらの生活であるという。具体的な活動内容として茶道教室、煎茶教室、料理教室、木工教室、書道の日、ギターの日、ウクレレ演奏会、大正琴演奏、中国体操、カラオケ、周辺の散歩、ドライブを実施し、時にはスペシャルディ(月替わりで外出し食事をする)を設けるなどしている。また、周辺の大学・高校・小学校・幼稚園などとも関係を持っているという。

 

2.   地域生活を送る上での「支援者」対「利用者」ではない関係性

ここからは、実際のフィールドワークをもとに知的障害者を取り巻く地域生活で必要となる関係性を見ていく。一般的に障害者は軽度者から重度者において地域の中で自立できる障害者とそうでない障害者がいる。知的障害者が自立生活を行う上で意思疎通が困難であることが自立生活を妨げるのではないかという見解は多い。また、従来の障害者観が根付いていることから、地域の中で生活をする障害者に対して、差別や偏見の目を向ける人もいる。そして親の囲い込みなどから、地域に出ることが少なく関係性が構築しにくいということや、言葉で伝えることが難しい知的障害者にとって、支援者側はその人にとっての支援が本当に正しいのかわからないというような問題がある。地域生活(自立生活)の実現には、支援者対利用者という枠組みの中で固定された関係性の中では難しいこともある。このようなことから知的障害者にとっての地域生活(自立生活)を送る上で重要なことは親・家族との関係性を見直すこと、親・家族以外の第3者や地域住民との関係性を構築していくことと言える。

 

1)  家族のような関係性

 前述したような、家族が介護を行う事を前提とした従来の考え方をすべて否定するわけではないが、より良い形として知的障害者にとっての自立の実現とは依存先が増えることであると考えられる。小児マヒをもつ小児科医であり当児者研究の研究者である熊谷晋一郎によると、「依存できる先が多ければ多いほど、人は自立しているとみなされやすい状態になると考えられる。逆に、一部のものにしか依存できない人は、自立できていない状態とみなされやすいのではないか」と述べられている9)。健常者に比べて、障害を持つ人達は、明らかに依存先が少ないとされている。例えば、バスにも電車にも依存できない、制度にも依存できないから、親に依存するしかいないというような依存先が明らかに限定されているように思われる。依存先が少ないことで、限られた場所への依存度が深くなり、「この場がないとやっていけない」とい状態になる。つまり、ここで言う、依存先とは障害者が頼れる範囲が広がることを指し、家族にだけ依存するのでなく、家庭の外で家族のような関係性を作り、頼れる場所を増やすことが地域生活の実現につながると考えられる。

家族のような関係性では、支援者と利用者が親子のような関係であったり、利用者同士が姉妹・兄弟のような関係性であったりする場面が見られることが多かった。実際の場面として作業所では、利用者と支援者が互いにその枠組みをこえた関係で過ごしている場面が見られた。いくつかフィールドワークにおいて観察した場面を紹介したい。

たとえば、一人の利用者と支援者が昼食前に口喧嘩をしている時があった。その内容は、テーブルを拭いたか拭いていないかというものであったが、利用者が拭いていないテーブルが1つあったのだが、利用者は「拭いた」と言い支援者は「まだ拭いていないよ」と言い合いのようになっていた場面があった。このような、言い合いのような喧嘩をする場面を取り上げると、その喧嘩自体をしてはいけないものと捉えるのではなく、共に時間・空間を過ごしているのだからそれも自然な姿で、素直な感情を出すことができる存在であると捉えるというような関係性の在り方である。

また、利用者同士では、一人の利用者がコロナワクチン接種の翌日であったため、一日中ソファで横になっていることがあった。その人に対して別の利用者「大丈夫だよ」「みんないるからね」と声をかけて、近くに座っているというような場面があった。このように、誰かが体調が悪いときに「大丈夫だよ。」と声をかける場面や、鼻水が出ている人に対してはティッシュをもってきて拭いてあげる、何かいたずらをしているときに注意したりと、利用者という関係をこえた距離感での生活を送っているような感じであった。施設の職員から、「支援という言葉をこえた関係性」という言葉を聞けた。これは筆者がフィールドワークで共に過ごす中で感じたことの1つでもあった。支援という形ではなく、利用者と支援者、または利用者と利用者の一人一人がそれぞれの距離感で一緒に過ごすことを自然としつつも、そのなかで楽しみを見つけながら生活しているのだと考えられる。

以下は、インタビューより、ステップワンの職員の家族のような関係性の具体的なイメージについての返答である。ここまで、家族のような関係性といってきたが、実際にはどんな関係を家族のようなというのだろう。支援される、支援するという関係性はその枠組みの中で、比較的容易にどこでもつくられる関係であるが、家族ではない、いわゆる他人同士が家族のような関係性を持つことはどのようなことなのかを聞くことができた。

 施設職員Aは次のように述べている。これは、家族のような関係とはどのようなものか、また地域で共に生きるを本当の意味で実現するための施設職員Aの思いである。

 

家族のような関係性をというのは、関係性だけではなしに、空間や時間を持ちたいというか。家族になってしまえば一番いいんか分からないけれども、それでは意味がないというか。それをやってしまうと、そんなやったら最終的に家族が見たらいいやないかとなる。だけれども、やっぱり生きていく以上は家族で見られない。見ようと思っても見られないのが現状やとしたら、やっぱりそれが仕事として成り立つんやったら、その制度も必要やし、そういう仕組みも必要やけれども、それを超えるようなものができへんかな。

 

つまり、家族のような関係性とは、家族になってしまうのではなく家族としての役割を果たす人が本当の家族以外に存在してもいいのではないのかということが述べられているように思われる。家族だけに責任があるではなく、社会的に知的障害者を支えることができるのが仕事として成り立つのなら、その制度や仕組みを活用しつつも、既存のものだけでなく、知的障害者一人一の個別性に合わせた生活を作ることが「それを超えるような」ものにつながるのではないかと思われる。家族ではないけど、家族よりも家族のようであるという言い方は曖昧な言い方かもしれないが、支援という枠をこえて、家族としての役割を互いに果たすことが出来ているということがこの家族のような関係性において重要であると思われる。

また、施設職員Bは次のようにのべている。家族のような関係性というのは、他人同士が時間をかけてつくりあげたもので容易につくられるものではないからこそ、どの関係を維持するためには、何かしらの工夫がされているのではないか思われる。このことに対しての施設職員Bの意見である。

 

誰かが間に入るんじゃなくて、自分対誰かの、その「対」を大事にしてほしい、私対誰かの関係性で、それを仕事と捉えるんじゃなくて、一緒に生活をしていく人。ほいで、家族やったら支援と呼ばないけれども、自然と手が出る、足が出る、口が出るのを感じてほしい。自分対誰かというのは、利用者とか健常者も障害者も関係なく、学校の関係でもそうだし、お友達の関係でもそうだし、それを深く追求して、生活してほしいというのは心掛けている

 

家族だと支援と呼ばないけど、支援者と利用者の関係では支援する支援されるという枠組みがつくられてしまう。家族のような関係であるからこそ支援ではなく「人」対「人」の関係の中で一緒に生活を送るためにその人のことをもっと知りたいと思う気持ちが重要であると思われる。

つまり、家族のようなでは、本当の家族になるというのではなく、あくまで他人同士が同じ時間・空間の中で家族のように支え合うことを言っているように思われる。仕事としての支援ではなく、共に生きるために、支援をこえた関係性の表れがこの家族のようにというものであったと考えられる。しかし、家族のようにと一言で表される関係性は様々あり、健常者、障害者など一人一人がそこで生活を送る人として、関係性を構築していくことが求められていると思われる。

また、地域生活(自立生活)において施設の中で関わる人との関係性だけでなく、地域の中で生活を送る住民との関係も必要になってくる。次は、家族のような関係性から飛び出して、ステップワンの地域との関係性の作り方を見ていきたい。

 

2)  地域住民との関係性

前述した、ステップワンの基本理念の「障害のある人もない人も地域のなかで共に生きていこう」にもあるように、地域の中で「共に生きる」というのは、大きな目標であると言える。歴史的な中で、私宅監置や地域とは離れた施設での隔離生活が行われていた時代があり、そこで根付いた障害者観は薄れつつも、いまだに残っているように思われる。しかし共に生きるを実現するためには、施設の中でだけの関係性だけなく、地域住民との関係性をどのように作っていくのかが重要になってくるだろう。ここでは、ステップワンにおける地域住民との関わりを見ていく。

フィールドワークの中で見られた場面として、自主的な関係、市民対市民の関係、開放的な関係性という3つの言葉で表すことができる場面が見られた。まず自主的な関係としてフィールドワークにおいて観察した場面を紹介したい。利用者と一緒に散歩に行っていた際に、商店街ですれ違った地域の人に「こんにちは」とあいさつしり、知っている人がいると手を振ったりする場面が見られた。利用者が散歩中にすれ違う人に自分から挨拶をする、手を振るなど、言語的コミュニケーションではなくても自分からコミュニケーションを取りに行く姿というのは、知的障害者の特有の問題として意思疎通が難しい等のコミュニケーションの問題があったが、単語程度の言語的なコミュニケーションや非言語的コミュニケーションにより自主的に関係性をつくる事ができるのではないかと考えられる。

次に、市民対市民の関係として、フィールドワークで観察した場面として、ステップワンは商店街でお店をしており、買い物に来た地域の人が、「今日は○○君きてるの~」というと、ソファで座っていた利用者さんが笑顔で手を振って答えている場面があった。「今日はいい天気やね」、「○○君今日は何しているの~」、「元気にしてる?」など利用者と地域住民との間で日常生活会話が繰り広げられている様子がみられる。これが利用者または障害者だから特別というわけではなく、地域で生活を送る市民同士の関係として成り立っているのではないかと言える。

3つ目に開放的な関係性であるが、ステップワンは地域に開けた施設として存在しており、地域に顔なじみの人がいること、ここにこんな人がいるというような個人としての認識での関わりが多いことが開放的な関係性を作っているのだと考えられる。具体的な場面を取り上げると、商店街のお店から利用者さんが外に出ていってしまったが、近隣の地域住民が「ステップワンの子やな。ここで居ときな。」と声をかけてくれてステップワンに連絡してくれるというようなことがあったと聞いた。これは普段から地域の人に対してオープンな姿勢をとるステップワンだからこそ生まれたエピソードであると思われる。このように普段から地域の人となじみの関係を作ることが地域生活の実現に近づくのではないかと思われる。

知的障害者の自立の実現のために、依存先を増やすという考え方を前に述べたが、この依存先の1つとして地域も含めることができると頼ることができる場所が増え、特定の施設への負担が軽減されるのはないかと思う。地域生活を送る上でこのような地域と関係性の構築は意思疎通が難しい知的障害者だからこそ積極的に図るべきであると思われる。またその関係性を作っていく支援を支援者が行う事が望ましい形なのだと考えられる。

 

3)  脱家族後の家族との距離

ここまで、家族とは異なる他者との関係性について考えてきたが、家族との関係性も忘れてはいけないことである。第2章で、青い芝の会の当事者運動の中の「脱家族」という考え方を紹介し、そこでは家族が障害者の自立を妨げる対象として書かれていることもあったが、家族だけに依存せずに、他人に依頼して生活しながらも家族と良好な関係をつくるという新たな家族の関係性として見直していく必要があると考えられる。

実際にインタビューの中の言葉をもとに脱家族後の距離の取り方について、聞くことができた。そこで出た課題についてふれていきたい。

施設職員Aは次のように述べている。これは、前述した家族のような支援についてのインタビュー中の質問の中での、本当の家族とどのような距離を保つのかについての職員Aの意見である。

 

家族のような生活は保障はします。そやけれども家族ではないです。生活の面倒は見るけれども、財産のこととか、土地のことや、うちのことになったら、もう僕らじゃないから。あとは、この人が、要するに障害年金で生活していけるような体制だけ組み上げて、だけれども、そこからは家族やから、そこからは立ち入らない

 

つまり、地域生活の中で、家族のような生活を保障するけど、あくまでも家族でないという線引きを行い、家族と一定の距離をとって地域で暮らしていても、最終的には家は帰りたい場所であるという利用者の思いを尊重することが重要だということが述べられているように思われる。ここで課題となるのが、支援者はどこまで踏み込んでいいのか、または踏み込むべきなのかという、脱家族後の距離の取り方どのように支援していくのかという部分だと考えられるだろう。

施設職員Bは次のように述べている。このインタビューの内容は、母親を亡くした利用者とその家族に対して行った支援についての思いである。

 

 何もそれを負担に感じずにやってしまっていたから、果たしてそれが良かったのかどうかというのは、それで結局お父さんは、私と関係はあれやけれども、そこまで踏み入って良かったのかみたいなのは、やり過ぎだったんと違うかみたいなのは、今でも感じている。それで、私がボランティアやったら良かった。こういう施設の施設長をしてしまっているから、その人がそこまで入って、そういうことをしていいのかどうかは、難しいよね。

 

つまり、家族の中に踏みこんだ支援に、マニュアルのような決まった形はなく、利用者やその家族が望んでいる形で家族関係を維持できるような支援を行うことが必要であると言える。家族の中に踏み込んだ支援を行う際には特に慎重になるべきだと考えられる。なぜなら、家族の中に踏み込んだ支援は容易なものではなく、それまでの信頼関係の中でできるものだと思われる。障害者支援のなかで親亡きあとの問題がよく取りあげられるが、親が亡くなる前からの問題としてこのように、支援の幅を家族にまで広げて支えることができる体制が望ましいと考えられる。施設職員Aも「利用者だけやなしに、利用者の家族も、変えていける力を持っとると思う」という発言をされており、利用者が中心となってその家族に対しても適切な距離感で接することが重要だと思われる。

この適切な距離感については、支援を中心となって行っている人がいなくなっても、利用者の生活が普段通りに送ることができるということだと筆者は考える。ステップワンにおいても現在、家族関係に踏み込む支援など、一人の人が中心となっていることが多いように思われる。このような現状は、支援の継続性を損なう可能性もあるように思われる。支援を継続するためには、一人の人に負担が集中するような形ではなく、全員で支援を考えることができるような体制を続けていく必要があると考えられる。家族からの依存を脱出しても、特定の人や場所に依存してしまうことは避けるべきであり、それぞれの距離の取り方については、それぞれの個別性を考慮した検討が必要であると考えられる。

施設職員Aは次のように述べている。これは、家族の代わりになって一緒に生活を共にすることで、限定された部分に負担が集中するのではないかという問いに対してでてきた答えの1つである。

 

本当にこの団体で、この人なり僕のどちらかが倒れたら、ここは成り立っていない。それは強制するもんやなしに、それだったらこういうふうにやれよというんやなしに、あとはもう任せてくださいというような、ここの部分は僕がやります、私がやります、あの人のことはもう僕に任せてください、私に任せてください、みたいな人が出てくるんが一番いい

 

つまり、前述したように、地域生活を実現していくためには、地域の中においても特定の人や場所に対しての依存は避けるべき事柄であるように思われる。そして、支援の中心を担う人がいなくなっても支援が継続できるような体制を作ることが求められていると考えられる。一人の支援者のできる範囲が広すぎることの一方で、他の支援者の負担となるような危険性も考えられる。しかし、一人一人が利用者にとってベストな生活ができるように家族を含めて一緒に考えていくことが、地域の中で障害者を支える一つの施設としての役割であり、共に生きるの実現につながるのではないかと考えられる。

 

3.   コンフリクトとその対応

 このように知的障害者の実際の地域生活に目を向けてきたが、地域で生活を送るということは、実際に、直接関わりのない住民も全員が同じようにそこの地域で生活をしているということである。このような中で発生するのが、障害者施設における問題の1つともなっているコンフリクトの問題である。施設に関わる利用者・支援者などの当事者同士の関係だけでなく、地域の中暮らしていくためには、障害者について理解がない人たちに対してどのように対応していくのかが重要になってくるだろう。ここでは一般的なコンフリクトの機能を見ていくとともに、ステップワンでのコンフリクトに対しての姿勢から考察を行う。

初めに、コンフリクトを未然に防ぐ発想のツールであった言える、日本の「精神病者監護法」を紹介する。これは、精神障害者の隔離政策であり、明治政府が1900年の「精神病者監護法」によって制度化した合法的な措置として、「私宅監置」と呼ばれる措置が取られていた。これは、自宅の敷地内に部屋を設け、閉じ込めることが認められていた。「監置」の対象となる患者の家族あるいは後見人が届け出て、警察や保健所が監督していたとされる。この時代、日本には精神病院はほぼ皆無というような状態であり、社会的な支援を受けることができる施設はなかった。したがって、精神病者を安全につなぎとめ、周囲とのコンフリクトを未然に防ぐためにこのような法ができたといえるだろう。

また、第二次世界大戦後、このような隔離政策は家庭から大規模施設へと移されるようになった。障害者を家庭で隔離するのではなく、病院や施設に収容していくような動きがみられるようになった。第2章の2節の196070年代の青い芝の会の当事者運動で述べたように、政府の動きとしても障害者の施設収容主義の福祉政策を推し進める形がとられていた。1968年の府中療育センターにおける処遇問題もこのような施設収容主義のもと浮かび上がってきた問題であるように思われる。障害者の隔離を家庭から、大規模施設に移し、コンフリクトを未然に防ごうとしていたように思われる。このように施設で障害者を隔離するといった形は問題視されつつも、依然として現在まで続いているように思われる。

このような障害者を隔離するというような動きは、人々が障害者に差別意識や偏見をもつというような障害者観を形成するきっかけになったように思われる。このような障害者観は現在は薄れつつあるものの、時代を経ても根付いているものであり、コンフリクトの発生に影響を与えているように思われる。

例えば、障害者施設に対しての建設反対運動などが起こることもある。障害者施設を作ることで土地の価値が下がるという声や、障害者に対しての差別や偏見意識から何をされるかわからないというような漠然とした不安や恐怖から反対運動が起こることがある。ほとんどは、実際に被害にあっていないが、根付いている障害者観からこのような出来事が起こることが多い。

 このようなコンフリクトは、以前はなくすべき、あってはならないというような考え方をしてきたが、現代においては様々な見解から、コンフリクトを乗り越えることで施設や障害者に対しての理解が深まり、地域の新たな社会資源の発生につながる機能があるとされている。また、地域との関係性が良好な施設では、日頃から施設を開放し、周辺住民との良好な関係を築くために努力しているという結果がでている10)。このようなコンフリクトでは障害者に対しての「見慣れる」「特別視しなくなる」といったような意識の変化の方向性が求められている。

コンフリクトの機能を含めて、ここからはステップワンにおけるコンフリクトに対しての取り組みを見ていく。

まず前提として、みんなが同じように地域で生活を行っているため、コンフリクトが起きるのは当たり前という姿勢を示している。ステップワンは当初、周囲の住民には何も言わずに事業を開始した。夜に会議をすることが多かったため、周辺の住民から不審な目を向けられることもあったようだ。設立当初は、一日中苦情の電話に応えることもあり、苦情が収まらない時には、一軒ずつ家を回るなどして対応していた。またグループホームから大きな声が聞こえてきたと、動画をとったり、録音をしていた住民もいたようだ。地域住民も同様に地域での生活があり、そのような苦情がでるのは当たり前のこととしているが、苦情が来た際にどれだけ家族のような支援として対応できるのかが重要であると考えられる。地域の中では「私らが我慢したらええんやろうけどな」という言葉を言ってくれる人もいたようだが、「共に生きる」を実現するために、どちらかが我慢したら解決するということではないように思われる。互いに折り合いをつけられるような対応が必要であると考えられるだろう。また、ステップワンは、活動を開始してから40年近くこの地域を拠点としており、その中での10年間、20年間と地域の中で積みあげてきた信頼関係は計り知れないものであると思われる。時には公民館、集会所などで地域の人に向けて説明をするなど、地域との密接な交流の中でコンフリクトを乗り越えているように思われる。

実際に作業所で大きな声を出している人に対して、作業所の近くで工事していた人は初めはびっくりしていたようだが「おお、今日も元気がええのう」と、一週間程度でそのような声をかけてくれるようになり、これが慣れる、特別視しなくなるにつながる出来事なのではないかと思われる。しかし、これは日中に過ごしている作業所での出来事であり、グループホームに移ると問題の解決は難しくなるようだ。グループホームでは作業所から帰ってきて夜の時間帯での生活となる。周囲の人たちも就寝の時間に声が聞こえることで苦情が出やすくなる。それに対して、地域の人に我慢を強いる、または障害者を離れたところに隔離をするというのは問題の解決にはならない。今後は、地域の中で理解されつつある知的障害者の地域生活の中でも、コンフリクトの問題はいつ起こるかわからないからこそ、それぞれにあった支援をつくり上げていき、地域住民との折り合いの中で生活が送ることができるようにするべきであるように思われる。

 

Ⅳ.考 察 

以上のように、知的障害者の地域生活の実現のためには、様々な歴史的背景と知的障害者特有の問題が存在していた。

歴史的には知的障害者にとっての政策は身体障害者よりも遅れをとっていた。障害者の当事者運動は身体障害者が中心となって行われており、その代表となるのが青い芝の会の運動である。1960年代~70年代の青い芝の会の運動はその後の障害者福祉に大きな影響を与えたとされている。また、この時代に、欧米のノーマライゼーションの思想が日本の当事者運動の中で考え出されたことは、障害者の地域生活の実現にむけた動きの中で大きな影響であったといえるだろう。この運動においては脱家族論がうたわれ、家族ではない他人に依頼して生活を送るという考え方が提唱されたことも地域生活の実現に向けての一歩となり得る出来事であるように思われる。しかし、この時代に自立の条件として身体障害者らが確立してきた所得保障制度は、知的障害者には釣り合うものではなかった。身体障害者の自己決定能力に合わせた政策は、自己決定能力や意思表示の方法が身体障害者と異なるは知的障害者には活用しにくいものであったように思われる。地域生活を実現するためには、知的障害の特有の問題とされる自己決定能力や意思疎通の問題に着目する必要があった。

 このように、歴史的に障害者の地域生活が認められつつある中で、知的障害者の地域生活をどのように実現していくのかが、課題となった。これに対して実際の地域生活支援について紹介してきたのが第章のフィールドワークの内容である。第一に家族のような関係を作るということであった。他人同士が支援者と利用者という枠を超えて家族のような関係を作り上げることは容易なことではない。長年の信頼関係のもとつくり上げてきた関係性であるだろう。地域生活においてこの家族のような関係性を構築する意義とは、家族介護を当たり前とせず、社会的に障害者を支え、親亡き後でも障害者が普段通りの生活を送ることができる事にあると思われる。第二に、地域とのなじみの関係性を構築するということを述べた。この関係性は、これまでに根付いた障害者観を薄める事につながるのではないかと考えられる。地域住民が地域で生活を送る障害者を当たり前、普通のことであると思う形が広がっていくことが望ましいと考えられる。第三に、脱家族後の家族との距離においても、良好な家族関係の中でその人が望む地域生活を送れることが望まれる。脱家族をし、家族からの依存を脱しても家族との関係は継続するものであり、新たな形として家族関係を構築していく必要がある。

 そして、障害者を支える事業所においては、地域に開かれた形をとり、障害者、健常者、関係なくその地域で生活を送る住民としての折り合いの中でコンフリクトを乗り越えていく必要があるだろう。

 このような知的障害者の地域生活の実現のために今後望まれる形としては、障害者の施設を地域のコミュニティの中に広げていく事だと言えるだろう。地域で生活を送る精神障害者〈べてるの家〉を例にあげて見てみる。べてるの家とは、1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点の場である。べてるの家は、「有限会社福祉 ショップべてる」、「社会福祉法人浦河べてるの家」、「NPO法人セルフサポートセンター浦河」などの活動があり、総体として「べてる」と呼ぶ。べてるとは、そこで暮らす当事者達にとっては、生活共同体、働く場としての共同体、ケアの共同体という3つの性格を有しており、100名以上のメンバーが地域で暮らしている。多くのメンバーがグループホームや共同住居で暮らしおり、一人暮らしや家族と住んでいるメンバーもいるようだ11)

 ここでべてるの家を例に出した理由とは、精神障害者の当事者が、自ら地域で生きていくためにはどうしたらいいだろうという思いから活動を始め、昆布の袋詰めの下請け作業をするという所から、地域のために日高昆布を全国に売ろうという「べてるの繁栄は、地域の繁栄」と言われるまでに発展していったという歴史があるからだ。この歴史の中でも、社会的な支援体制の乏しさや地域経済の弱体化、精神障害を抱えながら生きようとする当事者自身の生きづらさなど、様々な障害者にとっての悪条件があったようだ。それを乗り越えて地域でのつながりをもち、精神障害者らが中心となって地域のコミュニティの輪の中に入ることができる力は精神障害者以外の障害をもつ当事者にとっての希望になると思われる。

 また、海外に目を向け、フィンランドにある「イピ・カフェ」を例に、地域のコミュニティの中に広げるという形を見てみる。このカフェは、住宅街に位置し、向かいには地区の図書館があるなど、人が多く行き交う場所である。知的障害者ら、14名の障害者が就労しているようだが、障害者の就労を売りとしているのではなく、雰囲気と料理のそのものを売りとしている。地域の中で障害者が生活をするにあたって、障害者だから特別という形ではなく、地域の中の1つのお店として存在する、このような形が今後多く場で実現できることが望まれる。

2つの例を挙げて見てきたが、コミュニティの中に障害者の施設を広げていくということは、知的障害者支援を地域で行う形となり、共に生きるの実現を可能とするのではないだろうか。例えば、飲食店で働く人がいたり、そこでケースを作る人がいたり、障害の当事者が一人一人が健常者と同じように自分のしたい仕事をしながら地域で生活ができるような形がとれることが期待される。

 

Ⅴ.結 論

 本研究は、フィールドワークを行い、地域で生活を送るにあたっての知的障害者を取り巻く関係性の構築について見出だした。支援者と利用者、または利用者同士の家族のような関係性、地域とのオープンな関係性、また、脱家族後の家族との距離、そして施設にけるコンフリクトの問題の支援の実際とその取り組み、そして課題を見出した。その地域生活において障害のある人も、ない人も「共に生きる」を実現するための課題と今後の障害者支援の形を考察で示したような障害者施設をコミュニティの中に広げていくという結論が得られた。

 

謝辞

 研究を行うにあたり、研究協力を快諾くださいましたNPO法人ステップワンの皆様、対象者を紹介してくださいました関係者の皆様に心より感謝を申し上げます。また、1年間にわたり指導してくださいました浦野茂先生に感謝申し上げます

 

文献

1)   土屋葉:障害者家族を生きる,pp.23-5391-114,勁草書房,東京,2004.

2)   荒川章二,鈴木雅子:1970年代告発型障害者運動の展開日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」をめぐって,静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学編)4713-321996

3)   寺本晃久,末永弘,岡部耕典,他:良い支援?,pp3-293,生活書院,東京,2008

4)   小川喜道,杉野昭博:よくわかる障害学,pp118-145,ミネルヴァ書房,京都,2014

5)   三井さよ:はじめてのケア論,pp160-192,有斐閣,東京,2018

6)   浮ケ谷幸代:ケアと共同性の人類学,pp52-117,生活書院,東京,2009

7)   佐藤久夫,小澤温:障害者福祉の世界,pp2-259,有斐閣,東京,2016

8)   杉本章:障害者たちはどう生きてきたのか,pp172-181,現代書館,東京,2008

9)   尾上浩二,熊谷晋一朗,大野更紗,他:障害者運動のバトンをつなぐ,pp29-32129-181,生活書院,東京,2016

10)           野村泰代:精神障害者施設におけるコンフリクト・マネジメントの手技と実践,明石書店,東京,2013

11)           向谷地生良,小林茂:地域につなげること,大濱伸昭,コミュニティ支援、べてる式。,pp121-138,金剛出版,2013

 

 

 

 

この街で気がねなく自由に生きたい

 

宮崎吉博(三重・伊勢市) 

 

 

「ステップワン」、NPO法人化の決断と現在

三重県伊勢市のNPO法人ステップワンの宮崎です。篠原さんから「御地から新年のメッセージを」ということでしたので最近の様子を記します。「2021春討報告特集 街中で生きることと、介護制度」(10月号、11月号)を読ませていただいて、今後の指針になりそうなので職員や親にも読んでもらいました。そのこともあって「制度やサービスは使うけれど‥‥」みたいなことを少し書きます。

 

 ステップワンの原点は1981年、当時特殊学級担任になったばかりの僕が国際障害者年をきっかけに飲み友だちと作ったボランティア団体「地域Aからの出発」にあります。その後、我が子を普通学級へと考える障害児の親の会「亀の子会」と合流し、1988年にステップワン(はじめの一歩)という名称になります。

発足当初はボランティアが圧倒的に多かったため、何をやるにしても「やりたいからやる」「好きなようにやる」ことを大切にしていました。そのために心配なところは一杯ありましたが、それでも楽しかったし何よりも自由にやれていました。障害者とどこかへ出かけるのにも家族の了解さえあれば、今のように資格もいらなければ専門性を問われることもありませんでした。

ただ当時はとにかく予算がなく職員を雇うことができないため、親とボランティアで作業所の運営をしていました。作業所は知り合いのアパートを借りていたので家賃も格安でしたが、年間の赤字は大きく膨らみ、バザーや廃品回収だけでは追い付かなくなりました。

そこで芸能プロダクションばりにプロの演奏家のクラシックからジャズ、ロック、太鼓まで幅広くコンサートを開くようになり、自前の資金が少しずつ増えていきました。

ちっぽけな作業所は蓄えた資金で店舗を持ち、グループホームを運営するNPO法人になりました。その過程で(自由さや面白さがなくなってしまったのか?)多くのボランティアはいなくなり、替わりに職員が増えていきました。運営というより経営のために、失ったものも多かったように思います。

財政面で大きく変わったのは、今の障害者総合支援法を利用するようになってからです。障害者自立支援法から総合支援法への流れの中で、これを利用するかしないかで大いに悩みました。結局、何もかも自前で運営していくことには無理があったのと、作業所だけでは先が見えないことから利用に踏み切りました。

いまは大仰な言い方をすれば、「制度やサービスを利用しても初心は譲らないぞ!」みたいなことを感じながら動いています。

作業所と街なかの店舗、グループホーム、休日の日中活動等々を運営しようとすると、いろいろな制度やサービスを利用することになります。その中で感じる矛盾や腹立ちとどう折り合いをつけながら運営していくか、とても難しいことです。

例えば、今年度は、原則3年に一回という障害支援区分の認定調査に当たる年でしたが、調査にあたる人たちと毎回のように起きる一悶着がありました。詳しいことは書けないけれど「一体これは何だろうな?」と思います。彼らも、利用者や親、現場の職員と同様に苦しまなくてはならない支援とは何だろうなと思います。

春討報告の中にも、区分認定の時に娘さんが「商品になっちゃったみたいに思わせられて、非常にショックでした」という発言がありました。「できること、できないこと」を羅列させられて、その支援区分で給付が決定してしまう。「親としては事業所の運営のことを考えると、辛いことだけど区分は重い方がありがたいと思ってしまう」という話は何度も聞きました。何というひどい話なんだろうと思います。

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〈閑話休題〉

‥‥ 障害区分認定のようなものは世界各国にあるようで、イスラエルで報道された話をもとに製作された映画『靴ひも』を紹介します。この映画は実在の父子の臓器移植にまつわるエピソードがベースで、障害を持った息子がドナーになれなかったニュースから、自身も障害者の親である監督が製作したそうです。タイトルの「靴ひも」こそが障害の認定の象徴で、チラシには「一度目は、結ばなかった。二度目は、結べなかった。三度目は、‥‥‥。靴ひもを結ぶ―― その動作が、二人の運命を変える。」とあります。

もうご覧になった方も多いかと思いますが、検索すると予告編は簡単に観られます。予告編を観ると本編が観たくなります。映画なので詳しく書くと面白くないので止めますが、区分認定で疲れた心には一服の清涼剤になるでしょう。DVDを観た人はみな久しぶりに気持ちのよい号泣をしたそうです。‥‥

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なぜ「相談や計画」に縛られるのか

「なぜ障害者は相談や計画に縛られて生きていかねばならないのか」という思いを消せません。あらゆる問題の入口は相談にあると思います。その相談で躓くと先が見えなくなります。しかしその相談の在り方が問われているのに随分と軽く考えられているような気がしてなりません。「相談」という言葉は頻繁に使われるのだけれど、質の向上は図られていません。「相談」という言葉自体が軽いのかとさえ思ってしまいます。ある会合で「『明日のお昼ご飯は何にしようか』というのも相談なら、『明日からどうやって生きていけばいいのか』というのも相談なんです。一緒にされたら困る」と、声を張り上げたこともあります。

相談支援とは言いながら、何ヶ月かに一回訪問に来てモニタリング、「どうですか、調子は?」みたいなことはないだろうと思います。確かに色んな事業所はあるだろうから、きちっと運営されているかのチェックは必要だと思いますが、形式と実態の余りにもかけ離れた実情に福祉の軽視をひしひしと感じさせられます。

 

作業所から、……、居宅介護等々へ、どこまで?!

 何となく愚痴っぽくなってきましたので、今から始めたいことを過去の経緯を振り返りながら考えてみます。

ステップワンにもグループホームが合わない人がいます。当たり前のことですが、みんな自分の生まれ育った家が一番いいのは分かりきったことです。自分の家の姿・形、におい、音、灯り、そして何より家族。どうして障害者だけが「親亡き後」を心配され、「とにかくグループホームを」という主張になっていったのか? 

「作業所の次は店、店の次はグループホームを」と進んできて、グループホーム建設の推進役だった母親の息子がグループホームを拒否する。同じく献身的に活動してきた母親の息子が、近所の苦情が原因で一時休止状態。他にも入居者同士の相性で入居が考えられない人。こういった人のために、健常者とのシェアハウスやアパート経営、自宅を中心とする重度訪問介護をはじめとする居宅介護事業等々、今更ながら始めたいことの多さに驚きます。どこまで行けるのか?

 

もう一度、原点に立ち返って

「この街で気がねなく自由に生きたい」と思います。季刊『福祉労働』(171号 2021年11月)がリニューアルされトップに北村小夜さんの「どの子も一緒に学ぶ権利」。その中の「『気がね』はするからある。しなければない」に納得です。それで、この題です。 

「そんな歳になっても気がねなんてするのか」と笑われそうですが、僕も未だに多少はあります。「街なかで寝転がっていても、大きな声を出していても構わないじゃないか」とひとを鼓舞しますが、できればしたくないのが気がねです。北村さんの文を読んで、「そうか、しなければいいんだ」と妙に納得しました。そして同時に「共に学ぶ」を広げなきゃと思いました。リニューアル号の編集後記に、「特集はやはり、インクルーシブ教育でなければならなかった」とありました。そんな予感のようなものはありました。

最近、今も就学相談に関わっている人から「もう一度やってよ」と声掛けをいただきました。それだけ危機的な状況にあるようです。ステップワンの会員も高齢化して就学相談は縁遠いものになってしまいました。しかし思えばステップワンが大きな転機を迎えたのは、篠原さんに来ていただいた1986年の日教組近畿・東海・北陸三ブロック合同障害児教育学習会でした。この伊勢の地で親たちは「共生・共学」の流れが全国的なものであることを知ります。ここで出合った全国の教員や障害者、親から大きな刺激を受けて今に至る道筋ができたように思います。

今この地でも特別支援学校を希望する親が増えているようです。その学校には、放課後になるとサービスを提供する民間の事業所の車が並ぶそうです。制度やサービスが充実した結果がこれなんでしょうか?「共に学ぶ」姿とは程遠い状況です。

もう一度、原点に立ち返って若い世代の人たちと向き合っていきたいと思います。「気がねなく自由に生きたい」を共有できるように。

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会報用の原稿

2021.11.15

 

街を歩くことの意味

 

 ステップワンは「そよ風のように街に出よう」の言葉に触発されて伊勢銀座新道商店街に二つの店を構えています。足腰を強くし健康を保つために商店街を散歩していますが、健康以外にも目的があります。それは街の人たちに利用者の顔を覚えてもらい、ずっと付き合っていただきたいという願いです。大きな災害や事故が起こった時、万が一支援員と離れてしまっても「この人はステップワンの人や」と助けてもらえることがあるかもしれません。とにかく同じ町で生活している住民であることを知ってほしいのです。そのためにフェイスブックやホームページ等に写真も載せて活動を知ってもらう努力をしています。「載せていいのか?」という懸念をされる方もいますが了解はいただいていますし、何よりも知ってもらうことが第一だと思います。おかげさまで店では常連さんもでき、それぞれに相性のいい人がみえるようで愛称で呼んでくれる人もいます。

 街の中で大きな声を出していても道に座り込んでいても、それが自然な街の風景になっていけばいいだろうなと夢みます。しかし現実はそうではありません。やはり奇異の目で見られたり、気味悪く思われたりすることもあります。「こんな見方をされているのか」と残念な思いをすることもありますが、説明の必要なこともあるようです。

先日、街の中で手をつないで歩いている利用者と支援員を見た人が「障害者を子ども扱いしているのでは?」と懸念され、会員にその旨を伝えられたということがありました。確かに大人が手をつないで道を歩いているのは何かの事情がある場合だと思います。それが障害者である場合、身体的な問題がなければ「子ども扱い」という指摘は自然かもしれません。ただステップワンでも年と共に身体的な問題が少しずつ増えてきました。そのことを街の中の人たちにどう伝えていくかが大事になってきました。

その時は朝の打ち合わせで時間もなかったものですから、「利用者も年齢が高くなり足元が心配な人が増えたので手をつなぐのだから、そのことを知ってもらうことを大事にしよう」と話しました。指摘されたような話があった時こそ積極的にこちらの方から周りの人に話してほしいし、そういった指摘に答えることこそが「街の中で共に生きる」ことにつながると思います。

足元に不安のない人、特に若い男女の利用者と支援員の場合はどうなのか、も話題となりました。これには幾つかの考えるべき点があります。まずは散歩の時間、誰と誰が歩くかにもよります。できるだけ複数のペアで歩くことにしていますが、結局二人になってもお互いに散歩を目的に尊重し合っていればいいと思います。この場合、支援は主に学生さんが多いのですが、支援の側に「気の毒だから」とか「かわいそうだから」という気持ちがなければいいでしょう。それよりも一緒に歩きたいというお互いの気持ちを大事にしたいと思います。そのための教育の場でもあると思いますから、普段から学生さんたちには思いや願いを伝えているつもりです。共に生きていれば、障害者も健常者もありません。

障害者を「不幸」だとか「かわいそう」「気の毒」といった見方が多いのは現実です。この見方や価値観を変えていくこともステップワンの大事な役割です。街の中を若い男女のカップルが手をつないで歩いていても問題にもならないのに、障害者の場合だけ「どうかな?」という懸念を払しょくしていくためには、とにかく出ていくこと、伝えていくこ

とが大事です。「そよ風のように街に出よう」 素敵な言葉です。

 

 

 

新 職 員 研 修 資 料

2021.5.6

 

 今年も新しく3人の支援員が入りました。今回は他の福祉施設等で勤務された経験のある方ばかりでしたので、ステップワンの”個性”を知ってもらうために資料を作りました。

最初に皆さんが感じたのは、「ここは何かほかの施設とは違うなあ?」「なんだか、ゆったりとしてるなあ‥」「これでいいんだろうか?」だったらしいです。

 そこで歴史を紐解くことから始めました。わずかな時間だったので、余計わからなくなったかもしれません。時間をかけて、わかってもらえる努力をしていきます。

 

 

これまでのステップワンと

 

これからのステップワン

 

 

1.ステップワンの誕生

 

 この伊勢の街で「障害のある人もない人も共に生きていこう」とするステップワンは障害児の親やボランティアの「みんな一緒に!」という願いから生まれました。みんなと同じ保育園や幼稚園、小学校や中学校で勉強したり遊んだり、たくさんの友だちをつくって共同生活を送りたいという当たり前の想いや願いを大切にしてきました。今でこそ障害のある子が普通学級で学ぶケースも増えてきましたが、40年以上も前の時代はそうではありませんでした。普通学級を目指す障害児の親子にとって学校は差別との闘いの場でもありました。

  しかし先進諸国では既にノーマライゼーションという考え方が拡がっていました。1960年代に北欧諸国で始まった「自分たちの住む街から障害者を排除するのではなく、健常者と均等に当たり前に生活できるような社会をつくる」ことを理想とするノーマライゼーションは「障害児も健常児も一緒にいること」をノーマルだとしました。ステップワンの原点はその流れの「障害児を普通学級へ」の運動にあります。こういった考え方は世界に広がり、今ではインクルーシヴ教育と呼ばれています。(20164月から施行された「障害者差別解消法」もノーマライゼーションの理念に基づくものです。)  

  1981年の国際障害者年と時を同じくして「障害者と共に生きる」ことをめざしたボランティア団体「地域Aからの出発」が生まれ、普通学級をめざす障害児と親の会「亀の子会」と合併したのが1985年、今から36年前です。その後ステップワンを名乗り、宮川堤での「みんなの広場」や長谷川きよしコンサートを第1回とするステップワンコンサートを15回にわたって続けてきました。「みんなの広場」のバザーやコンサートの収益は、現在のステップワンの資産の土台形成に大きな役割を果たしました。

 当時のキャッチフレーズは「365日のうちの一日をください」で、その呼びかけに応じて集まったボランティアは一時200人を超えるほどでした。バザーやコンサートの時だけ、イベント終わった後の飲み会だけの参加という人たちも大勢いました。その当時からステップワンはボランティアの存在を大切にしてきました。

  当時は障害児・者に関わる教育や福祉は障害者とその家族または役場などの公的機関の人たちが中心で、どうしても当事者意識が強く拡がりに乏しいという問題を抱えていました。それを乗り越えるには第三者的な視点、つまりボランティアという役割で運動に関わることが大事だと考えました。

  現在のステップワンは事業を拡大し法人として職員を雇用するほどになりました。日常の運営に重きを置くようになって逆にボランティアの数は激減しましたが、今後も原点を忘れることなくボランティア精神は大切にしていきたいと思います。

 

 

2.作業所の開設に向けて

 

 「地域Aからの出発」と「亀の子会」が一つの団体となって「障害者の将来を考える会」が誕生し、その後「ステップワン(はじめの一歩)」という名前になります。

  1980年代は「障害児を普通学級へ」の時代になります。三重県でも伊勢志摩地方を中心にこの流れが一つのうねりとなり、小中学校での「共生共学」(「障害児を普通学級へ」)の実践が全国で発表されるようになりました。その頃、注目を浴び始めたステップワンには、東京や兵庫、大阪などから多くのお客様が来るようになります。障害者とその親の会の人たち、普通学級での実践をしている教員たち、養護学校義務化に反対する人たち、大学の教員たち、そして障害者運動をしている人たち、様々でした。彼らの興味を引いたのは、東京や大阪のような都会ではなく、地方の小さな街で普通学級を目指す親子が居て、それを支える教員やボランティアがいるということでした。

 そういった人たちとの出会いによって、ステップワンの理念のようなものができあがっていきます。その当時、「共生共学」に対して大きな壁になっていたのが「発達保障」という考え方でした。それは、どんな障害の人でも発達するのだから一歩でも半歩でも前向きに発達することを信じて指導することが使命だと考える教員たちによって行われていました。

   それに対して最も大きな抵抗を示したのが障害者自身でした。「いつまで訓練すればいいのか!」「人は発達のために生きているんじゃない!」「みんなと離れて養護学校なんか行きたくなかった!」「障害者を理解する? どうして障害者は理解されないと生きていけないのか!」などの言葉は学校の教員たちの胸に突き刺さりました。

  それまでできなかったことができるようになって、楽になって生きていけることはあります。できるようになった喜びがあり、周りの人とうまくやっていけるようになることもあります。しかし基準を健常者に当てて、「これもできない」「あれもできない」とできないことを挙げ、何とか健常者に近づけようとする考え方には抵抗がありました。発達保障が本当に障害者自身の生活に役立つものなら問題はありません。しかし本人の意思を無視したり、本人が望まないことを押しつけることは許されません。

  普通学級を目指す親子は、学校の先生たちにこう言いました。「この子のために何もしてくれなくてもいい。みんなと一緒に居るだけでいい」 当時の時代を象徴する言葉が北村小夜さんの「一緒がいいならなぜ分けた」です。子どもは障害者も健常者も一緒に居ることがいいと言うなら、なぜ特殊学級に分けたのか?ということです。

  分けることをおかしいと言うステップワンが、自分たちで作業所を作ることには抵抗を覚えました。作業所も結局は分けることにつながるし、施設につながっていくのではないかと考えたからです。悩んで北村小夜さんに相談しました。そのとき「自分たちで作業所を作るんだから、いいとこ探しよりはいいんじゃない」と言って貰ったことを今でも覚えています。「地域で生きていくために本当に作業所は必要なのか?」を考えた時、どんな形であれ「場は要る」ということが切実に迫ってくる出来事が起こります。学校卒業後、行き場のなくなった親子が生まれてきました。

 

 

3.ステップワン作業所の設立

  学校卒業後も「共に生きる社会」をめざすための第一歩として、私たちは作業所ステップワンを開設することになりました。伊勢市宮後でアパートの2室を借りて作業所を開所したのが1990年、現在の楠部町に移転したのが1993年です。

 ステップワンが生まれる前、「障害が重い」とされる人たちは作業所(小規模授産所等)に入所できないという現実がありました。「障害者のための作業所」である筈なのに拒否されるというとんでもない事態にも関わらず、「障害」者の親ですら「重いから仕方がない」と諦めてしまう時代でした。そんな中、一人の母親が度重なる問題の多さに「息子は施設に入所させるしかない」と地域で生きることを諦めました。その時「せめて昼間だけでも居る場所があれば」という母親の一言に、「この街で共に生きる」ことを目指した私たちは作業所を開設することを決めました。

 ただ、アパート2室の作業所は運営資金がないことから正規の職員を雇用することができず、アルバイトに加え親がボランティアという形で手伝っていました。当時の年間予算は僅かばかりでしたので、年間200万円ほどの赤字が続きました。それを補うために年中行事の宮川堤のバザー、コンサート等の他に、日曜日には全員で廃品回収やアルミ缶回収を実施していました。

  作業所としての実績が認められ「ステップワンは障害の種別や程度にかかわらず障害者を受け入れる作業所」として大切にされるようになると、その理念故に心配されることも生まれてきました。会員の中には活動の当初から加わり創成期を知る人たちがいますが、現在では設立の経過を知らない人たちが大半となりました。初めの頃のステップワンの会議では、「普通学級をめざす親子とボランティアが創った作業所に養護学校を選んだ親子が入るのは考え方にズレを生じさせるのではないか」という議論も確かにありました。しかしステップワンでは、どういう教育を選んだにしろ「障害」者として社会から阻害されるのなら共に生活していこうという考えが優先されました。養護学校を選んだ親の中には「ステップワンは自分たちには敷居が高い、苦労して作ってもらったものに無条件で入るのは辛い」といった声もありました。しかしステップワンの目指すものが「分けない」ことであるならば、自分たちが分ける方向に進むのは矛盾していますし、何よりも目の前で行き場のない親子を見過ごしにはできないということになりました。

 ただ、こんな風に進んできたステップワンですが、よくよく考えてみると設立時のメンバーの「障害」児が成人となって「ステップワンにいない」ことに気づきます。それぞれが何らかの形で違う場を見つけ生活しているのです。その意味では普通の学校、社会を目指したことは間違いではなかったようです。

  唯一残ってくれている人もグループホームの話題ともなると拒否の姿勢が強く話に一切入りません。こうしてみると、「普通学級を目指した親子にとって作業所とは何であり、グループホームとは何なのだろう」と考え込んでしまいます。「作業所で良かったのか?」という想いと共に、もっと違った生活の場を開拓していくことに力を入れたいと思います。

 

 

4.NPO法人ステップワン

  2008年、NPO法人となったステップワンは、2009315日、新作業所のお披露目会を開きました。これまでの狭い作業所に比べ格段に広くなり、そして明るくなりました。当初は色々な問題が起こり近隣の方々に迷惑をかけることもありましたが、今は日常として地域に溶け込んでいると感じています。「障害者と共に生きる」には『慣れる』という要素が大きく左右します。以前、前の道路を工事していた人たちも最初は驚いた様子でしたが、徐々に慣れて「今日も元気やなあ」と声をかけてくれたり、お菓子をいただくようになりました。こういったことが日常になっていけば、街に住むことの意味が大きくなります。

   2009年、ステップワンも障害者自立支援法の新体系に移行しました。全国的にも一割負担のことが問題になり、障害者15千人が国会を取り囲むという反対運動も生まれました。これが現在の障害者総合支援法につながっていくのですが、ステップワンも運営のために新体系に移行しました。

  ただ財政的には必要なことなのですが、「共に生きる」観点からは異議を唱えざるを得ません。障害者と健常者の関係を「利用者」と「支援者」に分け、日常生活をしていくために「計画」が必要とされてしまいます。「障害者はどうして計画を立てられて生活しなきゃならんのか!」「健常者の生活には計画なんかないじゃないか、もっと自由に生きたい!」という声に耳を傾ける必要があります。

  そのため、この法律の恩恵を拒否して自立運営をしている所もあります。ただ、現実的には財政のこともあり難しいところがあります。生活介護事業、共同生活援助事業、日中一時支援事業、こういったサービスを利用しながら設立の理念だけは大事にしていこうと思います。

  ステップワン作業所、新道の店「すてっぷわん」と「すてっぷわん川北」、グループホーム「ぱれっと」と「くれよん」と活動の場は5つになりました。また週末のグループホームを開くことにより日中一時支援事業も拡大し、職員も増えました。これからのステップワンを考える上で、大切にしたいことを挙げてみます。

 

・利用者全員の公平性を保ちたいと考えます。長い間、共に活動してきて、作業所、グループホーム、日中一時支援とフルに活用できている人もいれば、その一部しか活用できていない人がいます。現在、グループホームを利用していない人たちのことを先ずは考えていく組織にしたいと思います。「親亡き後」を共に考えてきた同志だと考えるから。

 

・最も大切にしていきたいのは本人の声。現在のグループホームや、作業所以外の道はないのか? 言葉は使わなくとも意思を確認できる方法を見出し、最も意に沿いそうな道を探っていきます。親は正しい意味での代弁者ではないことは共有していきたいと願います。

 

・現在の事業所の運営に加えて新事業の展開を探っていくために、三役会議に替えて事務局会議を充実させていきます。コロナ禍であるので難しいとは思いますが、先進的な取り組みをしている団体や組織を視察し研究していきたいと思います。

 

 

5.支援についての考え方

 ① 作業をしない作業所

 設立当初からステップワン作業所は「作業をしない作業所」といった言い方をしています

 それは障害者が集団で作業机を囲んで手作業を黙々とやるというイメージを初めから持た

 なかったことによるものです。持ちたくなかったといった方が正確かもしれません。作業

することによって健常者と同じくらいの給料が得られるならともかく、そう

でない以上は同じ土俵に乗っても意味がないと考えたからです。

  ですから「できる」「できない」の問題ではありません。「作業ができないから、しな

い」のではなく、「そういった形を取りたくないから、しない」のです。では

何をするのか?それは未だに手探りですし、おそらくはこの先もそうでしょ

う。今、よく言っているのは「生活を楽しむ空間と創造したい」です。それは

一人ひとり違います。以前、「7人の利用者がいたら7つの作業所が要るという

ことか」といった会員がいますが、その通りだと思います。ですから、これは

とっても難しいことです。

 

 

② 様々な試み

  作業所が生まれて30年が経過します。この間、それぞれの時代に携わった人たちが様々

 な試みをしてきました。うまくいったこともあれば、当然のようにうまくいかなかったこ

もあります。ひどい時代には、利用者がほったらかしのような状態に置かれたこともあ

ります。当然のように、その時には利用者も荒れたような状況になっていましたし、作業

所の中に入れない人もいました。わずか数年前のことです。「作業をしない作業所」の意

味を取り違えると、「何もしない作業所」になってしまいます。今、利用者は大変落ち着

いた状況にありますから想像すらできないかもしれませんが、支援の在り方によっては、

いつでも戻ってしまう危険性はあります。

 

③ 自然体(自然態)を求めたい

   何もかも諦めた結果の状態ではなく、様々なことを試みた結果の自然体(自然態)であ

ば、それは好ましい状態だと思います。いろいろやってみることは大切な試みだと思い

ますし、これまでやったことのない動きに利用者が目覚めることがあるかもしれません。興味や関心がどんなところにあるのか、正直なところ分からないことは一杯あります。

 ただ試みる時には必ず本人の意思を確認してください。そのためには人間関係を築くこ

 とが何よりも優先します。特に自閉症と呼ばれる人との関係作りは難しいかもしれませ

ん。ただ、これも自然に接してもらうことが基本だと思います。

  自閉症の第一人者であった小澤勲さんは「自閉症とは何か」という著作の中で、「自閉

は関係の中で起こる症状である」という意味のことを述べています。人と人とは分かり

得るものである、通じ合えるものであるという前提が崩されるような人に出合ったとき、

人はその分からなさを相手に押しつけてしまうことから「自閉」が生まれるのかもしれま

せん。ただこれも慣れで、時間の経過と共に「分かりにくさ」が逆に「分かりやすさ」に

転換することもあります。症候群ですので様々な傾向があることを念頭に置いてくださ

い。

 

④ 言葉を使わない人の想いをどう捉えるのか?

 言葉を使わない人の生活の様子や状態から推し図るしかない、としか言いようがありま

せん。ということは「正解のない問題」ということになります。

 そこで大切になるのは本人との関係性のあり方です。最も重要なのは、愛情と信頼です。自分の味方(理解者)だと感じてもらえるかどうかだと思います。言葉を使わなくても他人の言動や様子、時には顔の表情から何かを感じ取っているのは確かだと思います。ある人はかつて自分を悪く言う人に対して、大きな声を出して強く威嚇したことがありましたが、周りの人たちは「さもありなん」と感じていました。非常に分かりやすい例でした。

 

⑤ どう関係をつくっていくか?

  先ずは信頼される言動や態度を心がけることだと思います。障害者や高齢者の施設では多いと聞きますが、利用者を子ども扱いして怒りを買うことがあります。小さな子どもに話すような言葉づかいや態度を取ることは愛情や優しさではなく、差別的な言動です。

  心の中で、どこか人を馬鹿にしたような気持ちがあると、それは見透かされます。それぞれの人の年齢に合った言動を忘れないでください。いずれにしろ対等な関係を結ぶことが大切です。

  また、年齢のことだけではありませんが、ある人には許されることが他の人にはそうでないこともあります。人間関係ですから、すべての人に同一ということはありません。それこそ普段からどういった関係をつくっているかによるところです。人間ですから仕方ありませんが、他の人の言動を真似して自分にもできると勘違いすると、大きなズレが生じないとも限りません。

 

⑥ 想いが揺れることを大切に

  毎日の生活の中では、「どうしていいのか分からない」「昨日はうまくいった筈なのに今日はどうしてもうまくいかない」の連続だと思います。知的重度と呼ばれる人との生活

ではこれが当たり前であって、「どうしてこんなことをするのか?」とか「どうしてこんな無理ばかり言うのか?」など、きっと分からないことはたくさんあると思います。これはどれだけ経験を積んでも大きく変わらないことかもしれません。ただ、時には、ある場面や段階でふっと何かを観念した時、すんなりと諦めに入った時、その人とつながったと思える瞬間があります。この不思議な感覚が一緒に居ることの意味だと思います。それは時に家族でも味わえないような不思議な魅力を持った感覚です。

  大人になるに従って人はいろいろなことができるようになり、たくさんの知識を持つようになっていく、そういう風に育ちを考えてしまいがちです。障害者に対して、もっといろいろなことができるはずだと考えがちですが、その視点が自分中心であると大きな誤りをもたらしかねません。

  いろいろな想いが揺れることを大切にして欲しいと思います。揺れる、ぐらつく、立ち止まる、迷う、自信を失う、そんな毎日だと思います。そういったことを繰り返しながら一人ひとりとつながっていってもらえたらと願います。

 

「障害」の表記を考える

 2021.2.28

 

「障害」の表記をめぐって、フェイスブックで取り上げられたのを見て、こちらのホームページも見ていただければと思って紹介しました。

 そもそもは2006年に、三重県の教育委員会が「害」を「がい」の表記に変えることから始まりました。知事部局は当初は反対したそうですが結局かな表記になり、追随する形で市町村もそれにならいました。当時も今も、国は法律も行政用語としても「障害」を使用しており、知事部局は表記の違いによる混乱をおそれたからこその反対だったのでしょう。当時は「この場合は漢字か、”かな”か?」という論議が各所でなされたと聞きます。

 当時から「障がい」反対論を唱えていますが、いまだに漢字に戻そうとする動きは見られません。残念なことです。

 まず第一に、この国の法律は「障害」のままであって、今後も変更されることはないと思われます。次に「障」の字も問題です。「差し障りがある」「耳障り」等、「障」と同じような意味合いがあると思われます。3点目に、漢字熟語の一方を「かな」にすることへの違和感です。4点目に、笑い話のようですが、県に反対の意見を述べたところ、「”かな”にすることによって、表現がマイルドになる」というのがありました。思わず「差別にハードやマイルドがあるんですか?」と聞き返しました。

 問題は漢字がどうの、”かな”がどうの、というところではなく、「障害」という言葉自体が問題なのです。ここからは理由もたくさんあるので、もし読んでいただければこのコーナーにある文章を読んでいただければ幸いです。

 以下は2006年のものです。他に「障害」の表記をめぐってという文もコーナーにありますので読んでいただければ光栄です。

 

 

 

「障害」の定義を巡って

 

「障害」の定義や概念を巡っては様々な考え方や意見があります。ただ言えることは、1980年のWHOの「国際障害の分類」は画期的なものであったということです。人間の「障害」を impairmentdisabilityhandicapの3つの層で理解するもので、それまで漠然とした概念でしかなかった「障害」を、実にすっきりと解き明かしたように思えます。また、それまでの「障害」に対する偏見を打破する上でも有効だったと確信します。

 しかしその後、国際障害者年を経ることなどにより、「障害」者の社会参加などの側面が強調されるようになり、国際障害分類はその否定的な側面が課題視されるようになってきたというのが経過です。そこから、現在論議になっている「医学モデル」(個人モデル、医療モデル)と「社会モデル」の問題が生まれてきたのだと思います。

  1980年の「国際障害の分類」の不十分さを乗り越えるものとして、2001年5月にWHOは新しい国際障害分類を採択します。これがICFで「国際生活機能分類」とも呼ばれています。最大の特徴は1980年の分類の持つ否定的な側面を超えて、肯定的な側面を強調しようとするものです。簡単に言えば、人間の活動を共通して肯定的な概念でとらえ、その活動に支障をきたすものを「障害」を概念づけたことにあります。そこから「活動」と「参加」の言葉が大きな意味を持ち始めます。「社会モデル」に近づいていくのです。要するに impairmentdisabilityhandicapの個人レベル、医療レベルの概念から、社会を軸にした概念の構築に進み始めるのです。しかし、新しい分類は使いにくさをぬぐえません。

 impairmentdisabilityhandicap で、はっきりと結べた具体的な像が浮かばないのです。特に日本語にすると「活動」や「参加」といった言葉からのイメージが、どうしても抽象的な像になってしまうのです。そこで私は impairmentdisabilityhandicapの3つの定義を紹介し、その問題点を指摘した上で、国際的にも論議のある「障害」の定義について「みんなで考えよう」と結んでいくのです。

 

・ 私たちは国際的な状況の把握にも、もっと力を注いでいく必要があると思います。そしてそのことが「障害」者問題だけでなく部落問題を始めとするあらゆる人権問題につながっていくと信じます。

  例えばADA(Americans  with  Disabilities  Act 障害を持つアメリカ人法)の法としての画期的な展開、先見性や革新性には魅力を感じます。特に「障害」の定義について、いわゆる「見なし規定」が入っていることなどです。 impairmentを実際に持っていなくても「障害者」である、ということなのです。その人の周囲の人たちが、その人に「 impairmentがある」と見なせば「障害者」になるというのです。そこには「見かけ」の問題なども含まれます。「見かけ」により、その人が不利な状況に追いやられる場合、その人はADAの対象になっていくのです。

 

 要するに社会の在り様、社会のあり方をも問題にしていくのです。 周囲から見てimpairmentを有していると見なされる(それが事実かどうかは問わない)人が保護の対象になるということは、他の人権問題でも有効ではないかとさえ思います。ある差別の問題で「当事者」と同様に不利な状況に追い込まれていく人などにも、もしADAと同じような発想があれば適用していけるように思えます。残念ながら、我が国にはADAもないわけですから辛い話ですが、将来の法的な部分での創造や整備を考える上で、どうしても欠かせない視点だと思っています。

みんな喜ぶ、ひろみさんの笑顔

 

 

 11月6日(金)に中日新聞の細川暁子記者をお迎えして、ステップワンお話し会を開きました。きっかけは2018年の春、グループホーム男性棟の「くれよん」が開所したころ、

中日新聞がグループホームの世話人についての特集を組みました。その記者が細川さんで、そのころから伊勢に来てお話しいただけないかとお願いしていました。しかしこの間、コロナ感染の拡大が止まず延期となっていました。

 11月になってようやく実現したのですが、細川さんは取材という形で来勢されて記事にしてくれました。何か申し訳ない気がするのですが、森ひろみさんは大喜びでした。お兄さんのご夫婦も快く取材に応じていただき、「グループホーム ニーズ高まる」という記事になりました。1月27日(水)、みんなで新聞を回し読みしました。ひろみさんの笑顔がとっても素敵で、みんな「ほおおっ!」といった感嘆の声を上げました。

 「みんな喜ぶ、ひろみさんの笑顔」でした。

 

 

ステップワンお話し会(その3)

 

中日新聞 細川暁子さんのお話し

 

 細川さんも話されましたが、グループホームの世話人と話していて「本音のところは?」と尋ねると不安や愚痴が出てくるそうです。その本音を探っていくと、つまるところは問題が人間関係にあるというところに落ち着くことが多いようです。グループホームは「赤の他人が一緒に暮らす」ところです。実はこのことが随分としんどいのです。グループホームは文字通り「共同生活」ですから色々なことが起こります。人間関係を巡るもめごとが多いのはどこの世界も同じですが、グループホームの場合は支援する側とされる側というだけでなく、少人数の閉ざされた空間という特異性を持ちます。

例えば、世話人と入居者がうまくいかない場合。

2013年にグループホームが開所して以来、複数の世話人が交代しています。人と人との関係がうまくいかない場合、言葉のやり取りによるトラブルが多いのが一般的ですが、ステップワンには言葉を使わない人たちがいます。また、言葉を使うにしてもうまく自分を言い表せない人たちがいます。何かトラブルが起こった時、第三者がどこまで適切な判断ができるのか、そのあたりが最も難しいことだと思います。言葉を自由に使えない利用者の場合、それは当然のように不利になります。一方的に泣き寝入りのような状況に置かれるかもしれませんし、言葉は悪いですが「言い含められる」といった場面もあるかもしれません。よく言われるように「どちらにも言い分があるだろう」とか「どちらにも問題がある」とは単純に言えない事情があります。となると、どう判断していけばいいのでしょう。極めて難しい課題です。

ただ支援に入っていただく人たちには、以前からこういったお願いをしています。

「入居者との間で様々な問題が起きると思います。その場合に『障害』というものをきちっと理解しようとし、わかろうとする努力を怠らないでください。問題が障害故に起こっている可能性がある場合は、なかなか改善されにくいと思います。生活の仕方や習慣、生まれ持った特性、感情表現や性格などを「変えなさい」と言っても難しい話です。入居者に変わる可能性が低い場合は、周りにいる支援者の方が変わるより方法はありません。それが難しいと判断される時には、入居者を替えるわけにはいきませんので支援者に替わっていただきます」厳しいようですが、話し合いの結果、替わっていただいた例もあります。

ステップワンは「利用者第一」を掲げていますが、それは利用者の言い分が常に何よりも優先するということではありません。問題が起こった時には、双方の意見を複数で確かめた後で判断を下します。ステップワンではグループホームを立ち上げた時から、できるだけ複数の世話人で入居者の生活をみていくようにしています。それは共同生活で最も心配なのが一対一の関係だと考えるからです。

生活のスタイルは大体次のようなものです。

入居者がグループホームに帰ると、食事の係の人が買い物を終えて夕食を作っています。食事の準備中に、風呂の係の人が3人の入居者を順に入れていきます。食事と風呂の担当の人が仕事を終えると、そこで夜勤の人が交代します。夜勤は一人で3人に対応しますが、それまでは複数の人でみることになっています。実は夜勤も一人態勢が怖いので複数体制にしたいのですが、予算上なかなかそうはいきません。ただ伊勢市の場合、重度障害者の共同生活には別に補助を付けていただいています。これがありがたいのです。いま、男性棟は夜勤補助という形で、サブで一人就いています。このサブは男性棟だけでなく、何かがあったときのために女性棟にも出向きます。この補助は名古屋市で実施されている補助制度を見習ったもので、県内でも画期的なものだと自負しています。(続く)

 

ステップワンお話し会(その2)

 

中日新聞 細川暁子さんのお話

 

 

 

 細川さんは取材の中で、グループホームの世話人から「資格より経験」という言葉を聞いて「本当だな」と思ったそうです。ステップワンの世話人や生活支援員の人たちの仕事ぶりを見ていても、実際「資格ではないな」と思うことが多々あります。

 

福祉の世界にもさまざまな資格があり、制度が整備されるにつれ資格の数も増えていくようです。世話人には特に介護や医療の資格は不要で、特段の研修も義務づけられていません。大半の人は障害者と接する機会もなく過ごしてきて、ハローワークや新聞の折り込みチラシを見て応募してきます。面接でグループホームに住む人や仕事の様子を聴いて、「自分には合わない」とか「思った仕事ではなかった」と言って面接途中で帰ってしまわれる方もみえます。ステップワンでも資格のある人はいますが大半は資格を持っていません。資格のあるなしにかかわらず同じ仕事をしてもらっていますが、正直資格による仕事上での差はありません。資格は必要でないにもかかわらず仕事の内容は多様であり、実際に「どこまでが仕事なのか?」と言われると返事に窮することが度々あります。

  細川さんは話を一段落された後、世話人の方々のお話を伺いたいと問いかけられました。これまでの取材の中で世話人の本音に迫ると、いろいろな愚痴が出てきたそうです。勿論、今回のお話し会には他の職員から利用者の親や家族、法人の役員やボランティア等、さまざまな立場の人たちがいましたから愚痴っぽい話は出ませんでした。本当はたくさんの不満や愚痴があったのでしょうが、なかなか「実は‥‥」といった話にはなりませんでした。「この歳になって働ける所があるだけでも」といったことや「いい所です」といった満足げな意見が多かったです。(細川さんは取材で伊勢市にお越しになったとのことでしたので、どこかで愚痴を聞いていただいたかもしれません。またの機会に是非伺いたいと思っています)

 

今回のコロナ禍においては、それこそ自分自身の健康状態を含めた生活の在り方と勤務時の仕事の在り方を問い直さなければならない状況も生まれています。先ずは自分が感染しないように万全の注意を払い、予防対策を徹底する。そして施設の中にコロナの感染を持ち込まない、さらにこんな状況になってくるとクラスターを発生させないことが重きを持ってきます。どこの施設も毎日が緊張の連続だと言っても過言で無い状況がもう10ヶ月以上も続いています。そんな中で、先月、ある利用者が高熱を出しました。40度を超えることもありました。休日だったのですが、家庭の事情で夜間もグループホームで生活する必要が出てきました。夜勤の人は2時間おきに体温を測り、不眠不休の状態で付き添いました。「もしコロナだったら」という怖れは、高熱のあることを知った職員の誰もが感じましたが、家に帰せなかったのが現実です。そこでも「放っておけない」という思いが優先します。しかし、「こんなことで、いいのか?」と責められると答えはありません。幸いコロナではなかったのでホッとしましたが、もし万が一を考えると、ぞっとします。家族が元気でいるうちは、「インフルエンザ等の時は家に帰します」が原則ですが、守れない場合があります。そのとき、もし万が一の時にはどうすればいいのか、考えるだけで怖ろしいことを考えなければならない状況になってきました。

  「この状況の中で、どこまでが仕事なのか?」と問われたとき、「グループホームとは何なのか?」という原点を今まで以上に考えていく必要があるように思います。(続く)

 

 

 

 

 

ステップワンお話し会

 

中日新聞 細川暁子さんのお話

 

 

  116()、中日新聞名古屋本社生活部の細川暁子さんをお招きして、念願だったお話し会を開きました。細川さんは20183月に中日新聞日曜版に「グループホーム世話人」と題して3週にわたって、グループホームの世話人の持つ仕事の実際や問題点、課題等を取り上げられました。ステップワンはグループホームの男性棟を4月に開所する予定でしたので、親と職員の勉強会でこのシリーズを取り上げました。

  記事の中で夜間一人体制の不安を減らす為に、名古屋市では独自の補助制度があることを知りました。このことが契機となって伊勢市でも重度障害者サービスのグループホームの夜勤に補助制度ができました。そのことで男性棟は利用者3人に対して夜勤が2人という体制がとれています。女性棟は夜勤1人ですが、何か事があった場合には男性棟から駆けつけることができます。夜間に万が一のことが利用者だけでなく職員に発生したとしてもすぐに動ける体制となりました。

  このことがきっかけで細川さんのお話をぜひ聞きたいと考えるようになり、編集委員の大森さんに仲介をお願いして今回のお話し会が実現しました。

 

 細川さんはこれまでに自身が書かれた記事を中心にお話をされました。障害者問題への取り組みのきっかけとなったのは、細川さんが彦根支局にみえたときに滋賀県で起こった

 障害の2人の娘を持つ父親による無理心中事件でした。

  この事件について過去の記事を探してみたところ、2006126日の中日新聞朝刊に「怒り! 障害者自立支援法が無辜の父子を殺した」と題した記事が見つかりました。それによると滋賀県内で駐車場に止めてあった乗用車の中から3人の遺体が見つかり、43歳の父親といずれも養護学校(現在の特別支援学校)に通う10代の2人の娘だということがわかりました。死因は練炭による一酸化中毒で無理心中とみられました。母親が3年前に他界し父親は1人で在宅支援サービスを利用しながら子どもを育てていましたが、その年に施行された障害者自立支援法が過重な負担をこの父親に課せることになります。この法律の発想は「応益負担」にあり、この父子の場合、ヘルパー利用はこれまでの月1,000円程度から約6000円に増え、短期入所費も1,000円程度だったのが20,000円に膨れ上がりました。「出費が痛い」と役場の職員にこぼしており、自宅には消費者金融の督促状が見つかったそうです。更に追い打ちをかけるかのように養護学校の寄宿舎の廃止が予定されており、今後の進路についても重い課題が父親を苦しめ、将来への不安から無理心中に至ったといった内容でした。

  細川さんがこの事件をどのように捉えたかはきちっとうかがえなかったのですが、この事件の10年後、相模原障害者殺傷事件が起こりました。この10年で国の障害者についての施策はどこまで進んだのかを考えねばならない時に、時代を逆行させるかのような相模原障害者殺傷事件が何もかも伏せられたまま消し去られてしまいそうで怖ろしい限りです。

   そのことに触れながら「地域移行のはざまで」シリーズの「一つ屋根で家族のように」「地元の理解で関係を育む」「それぞれに合った場所で」を紹介されました。その中では私たちが運営する一戸建てのグループホームから、アパートの幾部屋を借りたグループホームまで、それこそ人それぞれに合った暮らしがそこにはありました。細川さんはグループホームの取材を進める中で、そこで働く「世話人」と呼ばれる人に注目をします。それが「グループホーム世話人」のシリーズにつながっていくのです。

 

  取材を進める中で、何の資格も持たないのにヘルパー以上の仕事をする人たち、「まるでお母さんのような人たち」を見て「すごい人たち」だと感じたそうです。

 (グループホームには利用者の生活の支援やサポートをする世話人と生活支援員という人たちが居ます。

  世話人というのは障害者総合支援法で定められているグループホームを経営するにあたって必要となる人員配置基準に指定されている人のことを指し、他に生活支援員という利用者の入浴や排せつ、食事の介助等の生活サポートを担う人がいます。)

   地域移行が叫ばれ、地域の生活の拠点としてグループホームが注目を浴びています。

  しかしグループホームを支える世話人の問題が取り上げられることはなく、一般にはその存在すら知らない人が圧倒的に多いのが現実です。そこにスポットを当て、世話人の本音に迫ろうとされました。「どこまでが仕事なのか」も曖昧なまま、労働者としての権利も守られず、「ほとんど善意に頼っているのではないか、それで大丈夫なのか?」と問いかけられました。それはステップワンも同様で、仕事なのかどうかと問われると曖昧になってしまう部分は「お願い」でサービスしてもらっている側面があります。私自身に「労働」としてきちっと捉えもなく、待遇の向上だけが善意へのお返しのような気持ちで接してきたような気がします。地位向上のためにも「労働組合的な発想もいるのではないか?」という指摘はその通りだと思いました。福祉と呼ばれる世界に最も欠けている視点だと思います。(続く)

 

 

 

 

村上健一さんの

 「ゆるんだり、こわばったり、また戻ったり」の

 「僕のパソコンは汚いから触りたくない」を読んで(第2回)

 

 

  若い頃、「人の感性や感覚は時代とともに望ましい方向に進んでいく」と信じていた節があります。しかしそうではないことは大人になるにつれて分かってきたような気がします。結局は、その人の生き方というか生き様の問題であって、得られる知識や情報で変わっていくものではないと思うようになりました。

 今回の村上さんの文章を読んで、職場でも話し合ってみました。感想程度のものですので紹介するほどではありませんが、やはり人さまざまというか、そう考えるんだなと思うこともありました。ひとつハッと思ったのは、「村上さん自身は他人が使ったパソコンを口で触ることは平気なんだろうか?」という疑問でした。村上さんのパソコン使いの状況がよく分かっていないからという前提があるのですが、そこは触れられていないからおそらく平気なんだろうと想像しています。ひょっとすると、日常にある様々な場面で出会う事象から考えると、そんなことは大した問題でないのかもしれません。

 他には、「施設長の気持ちもわかる」といったようなものから、「差別とまでは…?」といったものまでありました。やはり「ステップワンではどうなのか?」というところに話は進んで行き、よく話し合っている「知的重度と呼ばれる人の意思は?」が中心になりました。

  施設長が最近読んだツイッターに興味深いエピソードがあったと紹介してくれました。知的重度の若者の頭を、シェアハウスで一時同居した人が、ブリーチして金髪に染め上げたという話です。本人の意思を確認せずにやってしまったことなので、親にもモヤモヤとしたものが残ったそうです。すると同居人は「彼を愛している人たちが、彼に似合うと思って決めたのだから問題ない。彼を無視したことにはならない」と話したそうです。一方、金髪となった彼は金髪にしたことにより、周囲に褒められ、機嫌もよくなったそうです。それで親は、自分には金髪にする発想はなかったと述懐したそうです。本人が喜び親も納得しているのなら何も問題はないように思います。しかし、それでもなおと考えてしまいます。

  知的重度と呼ばれる人の意思とは何だろう? どうすれば確認できるのだろう? 分からないことが余りにも多すぎて、途方に暮れることも多々あります。

 しかしそれ以上に大切なことは、日常生活の中では考えずにしなければならないことの方が多いということです。お腹がすいたら何か食べたい、眠くなったら静かに眠りたい、トイレに行きたくなったら行く、そんな当たり前のことは深く考えずに行動しています。それで一日のほとんどは成り立っているように思います。とにかく快適に安心して生活が送れればいい。それが一番なのかもしれない。何に対して、どこまで意思確認が必要なことなのか、そういったあたりのことも考える必要があります。

 相模原障害者殺傷事件のあと、少しずつでもこのことが取り上げられるようになったことは前進なのかもしれない。とは思いますが、やはり圧倒的に情報量が少ないです。

 先日、相模原障害者殺傷事件から4年を経て、重度訪問介護のサービスを受けて生活する男性の様子が親の述懐と共にEテレのハートネットTVで紹介されていました。ここでも映画「道草」が取り上げられ、ひとり生活へのきっかけとなったようにも話されていました。

 いま、同じようなことを目指そうとするステップワンも、こういった情報を頼りに勉強を積み重ねています。

 

 

 

 

 

 

村上健一さんの

「ゆるんだり、こわばったり、また戻ったり」の

「僕のパソコンは汚いから触りたくない」を読んで

 

 

 

村上さんの今回の文章は深く考えることの大切さを教えていただけるものになりました。最初はじっくりと考えて論点になるものを探ろうとしましたがなかなか難しく、時間が経つばかりなので読んだ感想を書き連ねていくことにします。

 

村上さん専用のパソコンを用意するという展開は、ひょっとすると僕たちが簡単に乗っかってしまいそうな生活の一場面を見せつけてくれたような気がします。

 

施設長とのやり取りの中で、「済みません、使った後に拭いてもらうようにします。自分でもそのままにしていた節があるのできちんと拭きます」といった村上さんに対して、「わかりました。ではきちんとしてくださいね」という答えは用意されていなくて、最初から「村上さん専用のパソコンを買ってみたらどうですか」があったのだと思います。面倒なことは避けたい思いからなのか、苦情に対して同調したり共感するところがあったからかわかりませんが、対処としては最も簡単な方法だったのでしょう。但し、村上さんの思いに施設長が全く気付いていないことが一番の問題であり、そこを抜きにしたら僕たちも簡単に乗っかってしまうところだと思い、自分自身への戒めになりました。

 

もし同じようなことがステップワンの中で起こった場合、相手のことを深く考えずに施設長と同様の言動を取ってしまわないか、いや取ってしまっているのではないかと思ったのです。ステップワンには言葉を使わない人たちがいます。その人たちに同じような専用化を強いても、その人たちは言葉を使って抗議することをしません。ということは同じようなことをしていても、支援の側は何も感じずにいるかもしれないということです。こわいな、と思いましたが、既に自分自身がやってしまっていることもあるのではないかと反省しています。村上さんが専用化を拒否したことが、これまで自分の中でモヤモヤしていた何かに気づかせてくれたような気がします。

 

施設長は職場の環境や人間関係を考えて、皆に配慮しながら専用化を提案したのでしょう。しかし、そのことは村上さんを専用のパソコンに追いやることになる、皆から離すことになる。村上さんは「そこは差別というかやはり寂しいです」という話の中で、「僕は平気」という人に対しても、それは逆に犯人捜しのようになると指摘されています。「僕は平気」にも簡単に乗っからない村上さんの、これは生き方なんでしょう。この「僕は平気」発言も、日常生活の中でよく似た場面があるなと感じました。

 

逆に、同じように「嫌だ」といった人も、こういったやりとりは当然心苦しいし愉快なものではないでしょう。そこで村上さんは「共用のパソコン」を提案し、「会社に何万円も出してもらってわざわざ専用のパソコンに追いやられるのはやはり僕は納得ができないし、寂しいです」と言うと、施設長からは「それはダイバシティ(多様性)で、みなさんの多様性に応えるという意味で、会社として用意するのは当然だ。それを差別というのは村上さんの被害妄想です」と言われてしまいます。差別を(差別を受けた側の)被害妄想だと言ってのける感性にも、よく出遭います。

 

最近、ダイバシティという言葉が頻繁に使われるようになって、これから「差別」を「ダイバシティ」と言い換えてしまうような社会にならないかと心配です。「差別」を前面に出さないために、都合良くダイバシティという言葉を使うことがないようにしてほしいと願うばかりです。この国の人は「差別」という言葉にかなりの抵抗があるらしく、日常生活の中では滅多に使われません。余程切迫した状況で緊張した人間関係の下で使われることが多いと思います。今回のことも「差別ですか、そこまで言わなくても‥‥、そこはダイバシティなのでは‥‥」のような使われ方の見本のような気がしました。

 

また、村上さんの送迎に関わって公平や対等の問題も出てきています。ステップワンでもよく問題になる公平、対等の問題についても考えていきたいと思っています。

 

 

 

2020春討報告(子問研)抜粋

 

村上健一

 

 僕のパソコンは汚いから触りたくない

 

職場の話が出てきたのですが、いつも村上くんは楽しい話ばかりだねって言われるので、たまには楽しくない話もしてみようと思います。僕は職場で菜箸を口にくわえてパソコンのキーボードをカンカン打って、マウスは唇でカチッカチッという感じで使っています。自分の中では気を使って、なるべくベロは使わないようにして、パソコンを使っているつもりでいたのです。でも、それを見て触りたくない、汚いという職員がいて、彼が施設長に話をしたようです。

   施設長に「村上さん、口でパソコン触りますよね」と言われた時、ああ、もう言われるなって、どこかで言われる準備はしていたので、「済みません、使った後に拭いてもらうようにします。自分でもそのままにしていた節があるのできちんと拭きます」と言いました。そうしたら「それなら話は早いです。ひとつ提案があって、村上さんはパソコンを使うことが多いから、村上さん用のパソコンを買ってみたらどうですか」という話を施設長から言われました。

   それに対して僕は「ちょっと待ってください。ちょっと一晩考えさせてください」と伝えました。

 

 

 僕専用のパソコンは、皆から離されることではないか!

 

普段、会社のお金で1万円以上のものを買うと、あーだこーだと言っているのに、急に僕の専用のパソコンを買うのって思って、ちょっと学生時代を思い出すんです。和光大学の専用の障害者専用スロープじゃないですが、みんなの中にいながら車いすの僕は離されていくのと同じで、専用のパソコンに追いやられるのは、僕の中では違うと思ったのです。「そこは差別というかやはり寂しいです」というような話を会議の時にしました。僕がその話をしたら、何人かの職員が、「村上さんが口でやるの、僕は平気ですよ」という発言をしました。「それはそれで、誰が僕のパソコンを使いたくないと言ったか、犯人探しになるからそれ以上言わなくていいです」と言ったのです。

 

 

 専用のパソコン、それは差別ではなく多様性!?

 

それはいいですが、何故ぼくだけが専用のパソコンに追いやられてしまうのか。他の人は僕だけが使うパソコンとするのではなく、せめてそれも共用のパソコンにしてくださいと。僕だけがわだかまりを持つのではなくて、逆に使いたくない人は、そのパソコンを使わなければ良いではないか。僕のことを言った職員は二人くらいいるんですが、解っちゃっているんですが、その二人は嫌だということですが、この話がされた時は心苦しかったんだろうけど、そこはお互い様なのかもしれない。

 「僕のパソコンも共用のパソコンにして、ぼくはなるべくそれ使うようにするし、マウスというところでは自分のパソコンを持ってきます。会社に何万円も出してもらってわざわざ専用のパソコンに追いやられるのはやはり僕は納得ができないし、寂しいです」と言ったら、施設長が「それはダイバシティ(多様性)で、みなさんの多様性に応えるという意味で、会社として用意するのは当然だ。それを差別というのは村上さんの被害妄想です」と言われたのです。被害妄想ではないだろう、それで嫌だという人がいるんだから、ここは乗らないぞと思って乗っていないです。今結果的にその二人は僕のパソコンは使っているのは見たことがないです。後の職員は適当に僕の使った後でも何でもパソコンは使っています。ま、お互いに気を使ったりして。

  また、コロナとかになってきて、僕の世話とかが増えてきた時に、村上さんだけ会社の車で送り迎えをしてもらっているのは、公平ではないとか、対等ではないとかいう声が上がっているみたいです。そもそも僕は対等だとは思ってなくて、ぼくは僕で迷惑をかけていると思っているから、僕が頑張れるとか、やれるところでは一生懸命やっているつもりだし、そこは何でもかんでも対等という物差しでは見てくれるなと思っています。昔は僕にも同じチャンスをとか思っていたんですが、最近力が抜けてきたのか、別に対等でなくてもいいかなって。

 

 

 僕は僕らしく、地元・地域に根付いていきたい

 

そうやって街中で声をかけてくれる人がいるのは、結局僕は目立つからというところもあるし、ぼくが目立っているとか、人と違うっていうところは、僕はそこはそこで地元・地域の中では根付いているからいいのかなって思い始めいています。最近自分というものに対して、食を細くしたら、ギュって痩せて、もっと動けるようになっているかもしれないけれど、でも、僕は僕のままでやっていればいいやって。楽しくやりながら地域の人も巻き込み、巻き込まれながらやっていければいいかな、子ども付き合いもドンドン増えていって、地域の子どもたちとも交流するようになるだろうし、それはそれで子どもと奥さんと一緒にここに暮らしていくことで色々なことが起こってくるだろうし、その都度考えていけばいいかなってと思っているんです。毎日楽しく、職場でもたまには喧々諤々しながら、たまに緩んで余裕がなくなってくるとまた強ばって、強ばった時には、僕がズドーンとものを言ってというようにしながら、ここ数年は暮らしています。

 以上です。

 

 

 司会:村上さんが日常で体験しているお話を六つも七つも聞けて、しかも楽しかったです。どうしてかなって不思議なんですけど、お店の店員さんが「手伝いますよ」って言いにきてくれたり、「賞味期限がこっちの方が長いですよ」なんて、そんなことまで言ってくれたりする。だから、どこかに村上くんなりのコツみたいのがあるんだろうなと、そんなことを感じながら不思議に思いながら聞いていました。

    確かに、専用のパソコンの話では、村上さん専用のパソコンをつくるとなると「ああ良かった」で終ちゃいがちな話ですが、村上さんがそれをもう一度ひっくり返しながら一緒に検討するようにする、それはいい話だなと思いました。

 

 

 バリアフリー化が持つ問題に気付く

 

篠原:村上くんに喋ってくれと言った時に、君が「何で僕が」っていう風に言って、そういう時って、「それは君が障害者だけど街の中で堂々と暮らしているよ、その生活を語ってほしいんだよ」と僕が言っちゃってないかなって、そういう格好で篠原が引っ張り込んでないかと、君を説得中に、そんな感じをぼくは引きずっていたよ。一方でね、この身体で街の中で暮らしている話を聴いていると、面白い話がいっぱいあるんだよね。想像もできないような話が出てくる。ぼくはそこが聴きたいよというか、聴いといていいんじゃないかという感じをずっと持っている。障害者の村上が街中で暮らす、そこを語ってもらうという枠組みを設定して、村上が、そういう格好でまさか話してないよねって、君の話を聴きながら思っていた。

 でも、彼の体で穂音花と職場の人たちと暮らしをしていて、ぼくらが気づかないことで、面白い話が聴けたし、その中に何か生きる知恵みたいなものをぼくらは感じとった。

 もう一つ今日、聴いた話の中で彼が問題提起してくれたと思ったことは、パソコンの専用化に彼が抵抗したという話で、ぼくは鈍感だった。そこは村上の下で、パソコンに唾をつけちゃう話との関係の中で、全ての人ではないけれども気にする人たちがいて、そこを一般化してしまうと、こういう障害者にはこういうやり方で専用のものを作っていこうよという話が、いろいろな格好でバリアフリーの問題として社会的にもあり続ける。じゃ、バリアフリーが全然ダメっていう訳ではない部分もあって、そういうテーマとして最後の問いはきちんとした問題提起を、村上の体験の中で気づかせてくれたというふうに聴きました。来てくれて良かった。

 

 

村上:こういう話は学生時代からずっとしてきましたけど、20年経ってもこうなんだなと思います。自分が体験していることもそうだし、ずっと続くんだなと、気を抜いていると呑まれちゃうなと、そういう感覚を持ちながら生きていくことは大切だと思います。また後で話ができたらと思います。

 

 

司会: ありがとうございました。

 

 

「駅の無人化」という体験~
          電動車イスで春討を往復して

 

                             村上健一(東京・町田市)

 


エレベーターを降りると、そこには

 

バスに電車に乗り継ぎ乗り継ぎ、電動車イスで久々のひとり旅。相方たちが来られなくなったのも、この余計な緊張も、みんなコロナのせい。ようやく滝野川会館に到着。ん?こんなに人気の無い滝野川会館は初めて。案内には子供問題研究会の文字があるけど、本当にやっているのかしら? エレベーターに乗り、上の階へ。扉が開くと、そこには久美子ちゃん。「つかまえた、つかまえた!」って、棒を振り回している。「うん、つかまったわ」緊張は解け、僕はホーム(地元)へ帰って来た気がした。そう、今回、僕に与えられたテーマも「地元」。何だか笑ってしまった。
ありがとう、久美子ちゃん。

 


え、東京の上中里駅で?

 

当日、僕は持ち時間をフルに使って、地元での生活感、喜怒哀楽、職場での葛藤やぎくしゃくなどを話すつもりでしたが、それを削ってでも聞いてもらいたい、思わぬ体験をします。滝野川会館への道のり、公共機関としては最後にお世話になった上中里駅(JR京浜東北線)で、駅員さんに声をかけられます。
駅員「あの~、お帰りなどでこの駅をもう一度ご利用になられたりしますか?」
ぼく「はい、帰りに」
駅員「何時ごろですかね?」
ぼく「滝野川会館で4時まで会合があるので、4時過ぎ、4時半前くらいですかね」
駅員「あ、その時間帯ですと当駅は無人駅となってしまいますが、事前に連絡などは?」
ぼく「いいえ、今日数年ぶりかの利用で、そんなことになっているなんて知りませんでしたし」
駅員「では、お手伝いが必要な場合、改札前のブザーで呼び出していただきまして、お手伝いの者が参るまでお待ちいただくことに」
何かの記事で読んだことはあった。今後、駅がどんどん無人化になっていくようだと。無人駅になったら、僕みたいに乗降車時にスロープ板を出してもらう人間は、どうしたって人の手にお世話にならなきゃならないわけで、また厄介になるなぁとくらいにしか思っていなかったが、まさか春討で話す日にいきなり経験するとは思ってもみなかった。
え、ここ東京でしょ?

 


経験があったので・・・

 

無人駅の利用経験は、それなりにあった。奥さんと青森から鹿児島まで電車で旅行した時もしょっちゅうだったし、20年前の学生の頃も、あちこちにと動いていたので、珍しいことではありませんでした。だからこの日も、よりスムーズに動けるようにと、しつこく質問を重ねます。
ぼく「どれくらい待つ感じですか?」
駅員「しばらくお待ちいただくことに」
ぼく「しばらくって、どれくらいですか?」
駅員「・・・・・・」
ぼく「隣の駅とかから駅員さんが電車に乗って やって来て、僕の世話にあたる感じですか?だとするとここは5分に1本電車が出ているから、15分くらいですかね?」
駅員「と、隣の駅からとは決まっていなくて、しばらくとしか言えなくて・・・」
ぼく「じゃあ、だいたいとか平均どれくらい?」
駅員「・・・、30分から1時間かかることも」
ぼく「ええっ、1時間!聞いたこと無いですよ、そんな話!どうにかならないんですか?」
駅員「決まってしまったことなので」
ぼく「さすがに1時間もだと、その後の予定にものすごく支障が出るんですよ、家に帰るのが遅れると、ヘルパーさんの世話になっている身なのでそれが叶わなくなったり・・・」
駅員「大変申し訳ございません」
ぼく「困ったなぁ、地元じゃないんで他の駅の情報も無いしなぁ、あ、なら予約は出来ますか? 4時半にはここへ来れます!」
駅員「当日の予約は・・・」
ぼく「まだまだ4時半まで時間ありますけど、当日は×だと?到着駅がここだと駅員さんがスタンバイしてくれて、乗車駅だと前日の予約でないと厳しいということなんですね?」
駅員「分かりました、じゃあ、今日だけ、私が4時半に対応しますので」
じゃあ?じゃあって何だよ、じゃあって!と、噛みつくのは学生の頃の僕。20年後、今の僕は。
ぼく「え、本当ですか! 申し訳ないですね、でもすごく助かります、ありがとうございます!」
じゃあ、また4時半に!

 


無人駅の利用を想定してみる

 

障がい者差別解消法。合理的配慮を。交通バリアを解消していこう。利用客の多い駅にはホームドアを。「駅でお困りの人がいたら積極的に声をかけましょう。」と、繰り返されるアナウンス。このところの駅での流れです。
では、僕が無人駅で、駅員さん以外の人に手を借りる場合を想定してみます。
今はほとんどの駅に、駅のホームと電車との境を車イスで行き来できるようにと、スロープが設置されています。折りたたみ式でとてもコンパクトなものから、2メートル近くあるものもあります。駅のホームがカーブしていたりすると境目が広くなるから長くなるし、古い鉄道だと車体に二段くらいのステップがあるので、スロープもものすごく長くなります。また、歴史の浅い鉄道などだと、電車とホームの間をとても狭く作っていて、スロープがいらないくらいのところもあります。多くの場合、スロープはホームの前方後方で、鍵の付いたロッカーにしまわれ、駅員さんがこれを管理しています。
このスロープを使わせてもらえる、借りられる環境を作ってくれて、かつ居合わせるお客さんがいるならば、僕はお客さんにお願いをして、電車の乗り降りに結び付けられそうです。では、そんなに気軽に使わせてもらう事は可能でしょうか?
駅員さん以外の人間が、駅員さんのうかがい知れぬところでこのスロープを使用することは、管理が行き届かなくなるわけだし、スロープに何か不備があってもとか、安全面でも合理的配慮(出来る範囲で無理のない支援)の域を超えるので使用は・・・とか言われそうです。
マイスロープを持ち歩いている車イスの友人がいます。僕も持ち歩いて、居合わせたお客さんにスロープの設置などをお手伝いしていただいて、電車の乗り降りをすればいいのかしら?これも駅構内で事故につながった時の責任の所在がややこしくなるので、駅員さんに見られたり、相談窓口にわざわざ問い合わせをしたら、おそらくやめてくださいと言われるでしょう。
勝手に動いちゃダメと言われ、ただ待つのみ?

 


20年の時を超え、また・・・

 

20数年前、僕は手動の車イスで学生生活を送り、行動していましたが、仲間たちと電車を使って出かけた時に、駅に設備がないために、階段をオミコシのようにして数人で担ぐように車イスに僕が乗ったままの状態で持ち上げてもらい、階段越えをすることがよくありました。駅員さんに呼び止められ、危ないから、設備のある駅を頼る方法を勧められました。設備はあっても、それを使うと僕だけ別行動になってしまう事も多く、はぐれてしまったり、ものすごく時間がかかってしまう経験を、僕も仲間もお互い経験します。だったら荷物だって言って運んじゃおうよと、楽しい仲間に囲まれていた学生時代です。仲間がいない時もありました。女の子とお出かけの時、仲間は時として邪魔者になりますね。そんな時は、居合わせた屈強そうな人に声をかけたり、カップルに声をかけると、いいところを彼女に見せようと力を貸してくれたものでした。
今、僕は電動車イスと合わせたら、重量が200kgを軽く超えるので、当時のような勢いのあるお願いはしませんが、それでも向こうからお手伝いしましょうかと声をかけられることはあるし、いざという時は、こちらからもお願いしていかなくてはと思っています。
それにしても20年の時を越え、再び駅越えにぶつかるとはね。設備が無いので、から、人が居ないので、に理由は変わりましたが、また置いて行かれた、駅員さんの想定からはみ出しちゃったのかとため息交じりの苦笑いをひとつ。あ、はみ出してはいないのか。きちんと事前に連絡をしていないんだから、それ相応のことは仕方がない。
そうでしょうけど、そうでしょうか?

 


再び、朝の駅員さんと

 

帰り、朝の駅員さんと落ち合うと、いきなり謝られました。ん? 何のこと?
駅員「朝はすみませんでした」
ぼく「え? 何がですか?」
駅員「上の決定とは言え、配慮に欠ける対応をしてしまいました」
ぼく「いえいえ、こうしてルールを越えて対応して下さっているじゃないですか? じゅうぶんありがたいですよ」
駅員「今日はたまたま私が動けただけで、でも4月から本当に誰もいなくなっちゃうんですよ」
ぼく「承知しました、気を付けます、もしくは他のルートを探してみますよ」
駅員「(少し沈黙が続いて)お客様の声、今日の不便さでもいいので、よろしかったら相談窓口に言ってみて下さい」
ぼく「(少し面倒くさそうに)そうですねぇ」
駅員「私たちがいくら言ってもダメなんです! お客様の直接のこういう声が集まれば!」
ぼく「え、そうなんですか?」
駅員「そうですよ! 駅の無人化なんて、お客様みたいな方にもご迷惑がかかるし、何か起こったら誰が対応するんだ!」
ぼく「30分から1時間もかかっちゃねぇ、人一人いるだけで全然違いますもんね、駅員さんを駅に置きたくないのなら、車掌さんを一人余計に乗せて対応したらとかどうですか?」
駅員「そういうアイディアもぜひ窓口の方に寄せてください、でも結局、上は、人にお金をかけたくないんですよ」
ぼく「どういうことですか?」
駅員「設備に投資をして、人は切っていくんです」
ぼく「時代の流れなんでしょうかね」
駅員「本当に急に決まっちゃったんですよ、せめてホームドア、ホームドアの設置もしていないのに無人化なんて・・・」
またこの駅員さんに、世話になりたいな。

 


無人化と安全と経営のなかで

 

駅員さんの話から察すると、昨今、駅は、ここの場合はJRと言った方が良いのかな、JRは、設備投資にお金をかけ、少々強引に駅の無人化を進めていそうだ。人がいないから仕方なく駅員さんを減らすとかではなく、機械化を図り、無人化を目指し、人件費はどんどん削る方針なのだろう。
駅のエレベーター設置、繰り返される駅利用困難者へのサポートのススメのアナウンス、ホームドア設置の波も、駅の安全化のためなのか、人の手を減らしたいがためなのか。
経営のためとは言え、ある日を境に一気にここまで不便な利用になってしまう、はじいてしまう利用客が生まれることを知っておきながら、その利用客だけに、相談窓口や壁紙で広く皆さんにお知らせしてますからとするのは、実に堂々としていない。しかも、一辺倒な返事しか出来ないルール(事前連絡のお願い)を作って待ち受けているんだから、タチが悪い。一個人としてぶつかるには、あまりにも分厚く強固な高い壁だ。
もし少しでも責任を感じているのなら、駅無人化によって、実は乗車までに一時間待ちを強いるような駅利用困難者を生んでしまっていることを、もっと広く言ってみたらいい。だって仕方ないでしょ、という人が多いとは思うが、中には、それは大変だと共感してくれる人もいるかも知れない。何かアイディアを考えてくれる人もいるかも知れない。手を貸してくれる人も増えるかも知れない。良くも悪くも何か動いていきそうな、事が進んでいくのではないかと期待だって持てる。
窓口を作って、張り紙を張るのは、ブレーキをかけているようにしか見えない。
(駅構内アナウンス風に)「間もなく、コミュニケーション、止まりま~す」って。

 


人の手を借りながら生きる

 

喜怒哀楽、ぎくしゃくした時に動くものあり。今回であれば、私と駅員さんがぎくしゃくした。とても揺れた。そしてお互いが主張を重ねあった結果、心が動き、交わった。交わって、その間に結果が生まれた。私はこういうことが好きだし、大切にしたい。
久し振りに面白い駅員さんと出会ったなぁ。愚痴ばかり書いたようだけど、会社のルールを越えたところで私の世話に付き合ってくれたことに、心から感謝したい。熱心だったし、仕事に誇りを持っていることが伝わってきて、とても好感が持てた。いい駅員さんがいなくなってしまうんだなぁ。
一期一会、時間にして10分そこらのお付き合いでしたが、こういう出会いがあるのも、人の手を借りながら生きる醍醐味だったりします。今回はとてもいい経験をすることが出来ました。
春討に参加して本当に良かった。

 

 

 

 

 

「親亡き後」の講演2本

 

 県の知的障害がい者福祉大会があり、「親亡き後」をテーマにした2本の講演を聴きました。高齢社会の到来で、障害者を子に持つ親の「亡き後」問題はより深刻になってきました。最近とみに聞く話題の一つです。

 1本は「独立行政法人 国立重度知的障害者総合施設のぞみの園」の古川慎治さん、もう1本が「全国手をつなぐ育成会連合会」の久保厚子さんでした。

 久保さんのお話で、「『グループホームなら、どこでもいい』ということはない。本人の他の人との相性の問題とか、支援員との関係の問題など、色々な問題はある」との指摘がありました。実に今、私たちも直面している問題なので興味を持ちました。そんな中で「色々なことを経験していないと選べない」という話があり、実例として興味深いものがありました。

 施設入所の人(かなり高齢の人)に地域移行を勧め、試しにグループホームを4~5年間やってみたら、60歳になって「一人暮らしを始めたい」ということになり実際に始めたそうです。ところが骨折をして断念せざるを得なくなったのですが、やはり「一人暮らしを」という想いは捨てきれず、現在はワンルームマンションのグループホーム生活をしているそうです。最初は一人暮らしを渋っていた人が経験することで変わっていったということなのでしょう。

 「お泊り」とか経験することに速いも遅いもない、何かを経験をすることに「遅い」ということはない、という話は心強いものでした。あと、成年後見制度や基礎年金を取り巻く現状と課題など興味深いものもありました。

 「本人のライフステージを考える」の表中に、「学校というシェルターのあるうちに…」という表現があり、「えっ、学校ってシェルターなのか?」と想ってしまいました。自分にとってはある意味、衝撃でした。

 

 

 

映 画 「 道 草 」 を 観 て 

 

~障害者の「生きにくさ」と健常者の「受け入れにくさ」~

 

  末永弘さんの文章「知的障害者を巡る住まいの問題」の前書きにもあるように、最近は障害者というだけでの門前払いといった状況は少なくなってきていますが、入居などでは「身体障害の人は良いけど、知的障害や精神障害の人は何があるかわからないから貸せない」等の選別は強くなってきているようです。これまでも何かができる障害者であるとか、健常者中心の社会に適合できる障害者といった括りで分けられるといったことはありましたし今もあります。嫌な言い方ですが、つまるところ健常者にとってつきあいやすい都合の良い障害者が優遇されてきたような気がします。健常者がつきあいにくい障害者、一緒にいると都合の悪さを感じさせる障害者として、重度の知的障害の人や精神障害の人たちがあげられてしまいがちです。

  私は「障害の重さ」をいうとき、障害者の人が健常者にとって「どれくらいの受け入れにくさを感じさせるか」が一つの目安になると考えています。そこでぶつかり合うのが、障害者の「生きにくさ」感と健常者の「受け入れにくさ」感だと思います。

   障害者の人が「自由に生きたい」という思いを実現しようとする時、様々な制約や規制を受けてしまいます。障害者の施設などで、その制約や規制を直に与えてしまうのが「支援」という仕事をしている人たちです。例えば、ある知的障害の人は一日中でも外にいたいとします。しかし炎天下に朝から夕方まで屋外にいたら倒れてしまいます。そこで屋内で過ごすように支援員が説得を試みるがなかなか入ろうとしません。入らないどころか大きな声で叫んだり、自傷行為に走ったり暴力を振るったりするとします。こういった事態が続くと、支援員の中には暴言を吐いたり、暴力を振るったりといった虐待やそれに近いことを起こすことがあります。こういった虐待は毎年のようにかなりの件数で報道されますが、一向に減少する気配は見えません。特に知的障害の人で言葉を使わない人などは被害を受けることが多くなってしまいます。

  健常者にとっての「受け入れにくさ」の度合いは、勿論受け入れ側である人それぞれによって違います。家族であったり、長年支援を続けている人にとっては何でもないことが、初めて出合う人たちにとっては「とんでもないこと」になってしまいます。通りすがりの人に大きな声で挨拶をしただけで怖がられることはよくあります。特に小さいお子さん連れの家族などにとっては、とんでもない事態になってしまいます。一緒にいる者にすれば「挨拶をしただけなのにどうして?」と思いますが、親が子どもを隠したり親子で逃げ出したりといった場面に出くわすことは結構あるものです。

  職員や家族の側にある「慣れ」は怖いものだと思いますが、結局「慣れ」しかないのかなとも思います。しかし到底「慣れてください」と強要はできません。謝り、説明し、理解を求める日々が続きます。

 

映画「道草」を観て、同じような日常に共感を覚えました。

 

 

 

~映画「道草」公式サイトより~

    ユウイチローさんの日常

 

   ドンドン!(自宅の2階で物音を立てる)

 

   大丈夫。ほんとに大丈夫だから下行け。

 

   大丈夫?

 

   下行け! ほんと大丈夫だよ、大丈夫。下行け!

 

 

 

  「何かあったらどうするんだっていった時には、責任は裕一朗くんにも

         あるし私たちにもある。私たちは出来るだけそうしないように、悪い

         言い方で言えば監視役でもあり、ガードマンなのかもしれない。けど

         それはあくまでも、彼の自由を担保するために居るっていうことなん

         ですね。」

 

   「本人が抑えようとしている気持ちはわかるんですよ。入院もしたくな

          いし暴れたくもないし、っていうのはわかるんだけどそれが抑えられ

          ない、自分じゃどうすることも出来ないっていう。思えば思うほど

          どんどん悪い方にいっちゃう」

 

 

 

 

 

2019年1月17日

 

伊勢市防災センターで体験学習!!

 

 

 阪神淡路大震災から速いもので24年の歳月が流れました。1995年2月、コンサートの収益金を持参して神戸の「えんぴつの家」に行ったのが、まるで昨日のことのように思えます。でも20年以上の月日が経過しています。

 先日、テレビドラマ「BRIGE はじまりは1995.1.17」を観ていて、芦屋の駅に降り立ったことを思い出しました。大阪までは何も変わらない日常の風景なのに、神戸に

近づくにつれ様相は大きく変わっていきました。ブルーシートが目立つようになり、電車はここまでという芦屋に降り立ったときには私たちは言葉を失っていました。ドラマの中でも大阪の繁華街との比較で、これはいったい何なんだ!!という登場人物の言葉がありました。

 私たちは「障害者にとって地震とは…」という大きな課題を抱えたまま、日常を送っています。このままでは…と思うのですが、何から考えればいいのか?すらも見えていないような気がします。

 今日、伊勢市防災センターで体験学習をしました。12月には新伊勢市立総合病院を見学させていただき、今回も2回に分けて防災センターを訪れました。障害者と支援員、親、ボランティアの参加でしたが、実りあるものになったと思います。

 今、ステップワンは市内の至る所に利用者と出かけています。あってはならないことですが、何かの緊急時に顔を知っているのと知らないのでは大きな違いがあると思います。利用者の特徴をたくさんの人たちに知ってもらって、「共に生きる」ことを実践していきたいと考えています。

 

「障害者手帳」と雇用水増し問題

 

 

 障害者雇用水増し問題が大きな社会問題となっている今、障害者手帳の存在がクローズアップされています。雇用率の算入には「障害者手帳の所持が原則、必要」だとされていますが、そうなると自分の意志で手帳を持ちたくない人や「障害が軽い」とされる人が対象外になってしまうおそれが出てきます。官公庁をはじめ公的機関が障害者手帳所持者以外を雇用率に参入していたことは許しがたい問題ですが、手帳とは別に障害の実態に合った障害者雇用を考えていく必要があると思います。

 ADAというアメリカの法律があります。その中に「見なし規定」というものがあります。「障害の表記」について考えた10年ほど前の文章に次のようなものがありますので紹介します。

 ――― 私たちは国際的な状況の変化の把握に、もっと力を注いでいく必要があると思います。そしてそのことが「障害」者問題だけでなく他のあらゆる人権問題の解決につながっていくと信じます。

 

  例えばADA(Americans  with  Disabilities  Act 障害を持つアメリカ人法)の法としての画期的な展開、先見性や革新性には魅力を感じます。特に「障害」の定義について、いわゆる「見なし規定」が入っていることなどです。 impairmentを実際に持っていなくても「障害者」である、ということなのです。その人の周囲の人たちが、その人に「 impairmentがある」と見なせば「障害者」になるというのです。そこには「見かけ」の問題なども含まれます。「見かけ」により、その人が不利な状況に追いやられる場合、その人はADAの対象になっていくのです。

 

 要するに社会の在り様、社会のあり方をも問題にしていくのです。 周囲から見てimpairmentを有していると見なされる(それが事実かどうかは問わない)人が保護の対象になるということは、他の人権問題でも有効ではないかとさえ思います。ある差別の問題で「当事者」と同様に不利な状況に追い込まれていく人などにも、もしADAと同じような発想があれば適用していけるように思えます。残念ながら、我が国にはADAもないわけですから辛い話ですが、将来の法的な部分での創造や整備を考える上で、どうしても欠かせない視点だと思っています。―――

 

 雇用率をごまかしてきた事実が明らかになった今、障害者の雇用を根本的に考えていく幾つかの視点を早期に提起していく必要があると思います。一気にADAのようにはいかないと思いますが

実態に合った雇用の在り方を障害者自身や家族、支援に携わっている人たちの声を中心に考えていってほしいものです。

 

障害者雇用の水増し問題

 

 全国の中でも早くから「障がい者」の表記に改めた三重県で、あろうことか障害者雇用の水増しが明らかになりました。それも県で「障がい者」表記の発端となった三重県教育委員会においてです。障害者に対する差別意識の解消や緩和に向けて、言葉の問題である「障がい者の表記」の改善から取り組むとした組織が起こした悪質な差別問題だと思います。県は「表記の変更に止まることなく、本来の取組の充実や『障がい』を理由とした差別をなくすことなどについて、県民のみなさんにご理解いただけるよう一層努めることとします」と宣言しています。報道によると10年も前から行われていたということですから

表記を「改善」しようとしていた頃のことです。詳しくは今後調査する必要があると思いますが、同じような時期に全く予想もしない領域で信頼を覆すことが行なわれていた事実に愕然とします。

 障害者の雇用促進法については、重度障害者のダブルカウント問題や納付金制度の問題もあり法そのものも問題だと話していた自分も、公表される雇用率については疑うことが全くありませんでした。雇用率を誤魔化すことなどあり得ないことであり、不信を持つことすらあり得ないことでした。いま、情けないを通り越して全く言葉が出ない状況です。

 これから出るあらゆる数字を疑ってかかることしかないのでしょうか?

 

 

 

 

 石川憲彦さんの著作「『精神障害』とはなんだろう?」を紹介していく上で、「障害」という言葉の表記について触れることが必要だと感じましたので、10年以上も前の文章ですが載せたいと思います。

 NPO法人ステップワンでは「障がい」のひらがな表記は用いずに、「障害」と表記しています。 なぜ、そうなのか? きちっと説明してこなかったように思われますので、上述したように10年以上も前、2007年の拙文ですが掲載します。よほど腹立たしかったのか大仰な表現も有り恥ずかしいですが、真意をご理解いただければと願います。

 

 

「障害」の表記をめぐって

 宮崎 吉博

 

 人が生きていく上で腹立たしい想いや憤りを持って物事の推移を見ているだけといった事態が多々あることは、私も十分承知しています。しかし現在、「障害」の表記をめぐって、次々と「障害者」が「障がい者」に変更されていくことに大きな議論もなく推移していくことには疑念を感じています(勿論、私だけが議論の存在を知らないのかも?)。

  私自身は結論から申し上げますと、現在の段階では表記としては「『障害』者」としておいて、その用語を使用してきた歴史や表現における差別性の問題について議論を始めることが大切だと考えています。残念ながら、現在の段階で私自身が納得できる理由で「表記を変更する」という論には出合っておりません。

 一昨年あたりからでしょうか、「障害はひらがなで書いた方がいいんですか?」とか「『害』は、漢字とひらがなのどちらが正しいのですか?」という問い合わせが来るようになりました。「どこから、どんな風にして、そんな話になるのか?」が分からないこともあり、「おそらく県内のどこかで流行りだしたのでしょう。僕はきちっと漢字で書いていくことで、言葉の問題として「障害」の表記自体の差別性を問い続けていきたいと思ってますが…」と少しの説明を加えながら答えてきました。恥ずかしながら「結局は流行の類でしかなく、大きく障害者問題の変容をもたらすような本質的な問題ではない」と考えていましたから、大半は素っ気ない返事になっていたと思います。(中には「障害の定義」のようなものを国連、WHOや諸外国の例を引き合いに出しながら説明した場合もありますが、極めて少ないです。また、すべてが電話のやりとりなので、当然のように話し言葉ですから「ひらがな」も「漢字」もありません。いちいち「今の場合はひらがなです、漢字です」と説明しないと分かりません。このことだけでも明らかなように、「害」「がい」は読み書きの問題であって、話し言葉においてはほとんど意味のないことです。)

  単なる流行の次元の問題だろうと考えていたのですが、今夏に開催されたある研修会で「流行のようにして安易にがいにすることは問題」と表記の問題について話したところ、研修会が終わってから「実は、三重県として表記を改めた」と知らされました。そこで初めて「いつの間にこのような事態になっていたのか、何も知らずにいた」ことの不明を恥じました。ですから、もっと早い時期に自分の意見を述べるべきだったのでしょうが、それこそ「障害」者をめぐる他の問題の方が大きかったことと怠惰が原因となって今となってしまいました。現在のところ、私は「がい」と「害」の「どちらが正しい」とか、「表現として望ましい」などと述べるつもりは全くありません。そうではなく、この用語を使い続けてきた私たち自身、つまりは「健常」者を中心とした社会の差別性を問い直すことしかないと思います。だからこそ「安易に変えるな」と言い続けているわけです。とりわけ、「がい」と表記することが障害者問題の解決のための前進と信じている人たちには分かっていただければと思います。

 

 私は「障害」の表記について、これまでは次のような説明をしてきました。

 『障害』の表記については色々な考え方があります。漢字を見れば分かると思いますが、広辞苑によると『障』という文字の意味は『さまたげること』や『さわり』『防ぎへだてること』とあり、また『害』は『そこなうこと』や『悪くすること』『さわり』『さまたげ』とあります。いずれも「ひと」を表現する上で問題が大きいのですが、特に『害』については良い意味で使われることはありません。しかし問題は書き言葉としての漢字の問題だけではありません。もっと大きな問題は、「障害を持つ人」「障害を有する人」を「障害者」の一言だけで表現しようとすること自体に問題があるのです。国連やWHOでは次のような定義をしました。この定義が、この国で拡がらなかったことにむしろ問題があるといえます。それは次のような定義です。

  WHO(世界保険機構)は1980年に「WHO国際障害者分類試案」において、3レベルの障害の概念を提起しました。それによると、

  impairment(機能障害) 身体的・精神的不全という生理的・機能的レベルの障害

  disability(能力低下) 機能面の制約による能力の減少という個人レベルの障害

   handicap(社会的不利) その社会的結果である不利という社会レベルの障害

 の3つに分かれます。

 ただ、この分類にはいくつかの問題があり、2000年にも改定作業が行われています。私も因果論的に説明することの不適切さや、個人レベルに焦点が当たりすぎていると思います。また、それぞれの言葉自体に問題があることも承知しています。しかしそれ以上に、この3分類がこの国で定着しなかったことに、より大きな問題を感じます。この分類が少なくとも「障害」の一語で人を表そうとするよりは随分と分かりやすいものになっていると信じるからです。

  大体はこういった話になります。実際に様々な場でお話をすると、今でもレジュメに何かを書き込んだり、納得された顔でこちらを見ていることが感じ取れます。私は漢字の「害」の問題よりも、WHOや国連の定義が活かされないことに問題があると思います。また、そこから全国同和教育研究協議会は1984年から障害に「 」をつけることにしたのだと説明してきました。

  今のところ、私が共感したり連帯感を持つ障害者運動団体や出版関係者から表記の問題について、「害をひらがなに変更した」とか「変更を考えているがどうか?」等の意向を聞いたことは全くありません。少なくとも私が信頼する個人や団体からは、この表記の問題についての話はないということです。皆さんがどのような思いでいるにせよ「あまり、おもしろくない事態」だとは感じて見えるのだろうと思っています。ひょっとすると無視をすることによって異議を唱えているのかも知れないとまで思ってしまいます。

  私自身も今回の「改正」「改訂」「改善」については、はなはだ奇妙な論理ばかりを聞きました。曰く、「漢字のイメージの悪さから表現を変える」「ひらがなによって表現がマイルドになった」等々です。(思わず「差別にマイルドやハードがあるの?」と皮肉っぽく言ってしまいました。)

  また、「害」をひらがなにすることによっての文章の混乱ぶりは目を覆うばかりです。法令や条例、規則等の表記については従前通りですので、「障害」者問題についてのパンフレットやチラシの類が多く配られる季節、1枚のチラシの中に「障害者」と「障がい者」が混然と並んでいることに何の疑問も感じないのでしょうか? 大体、熟語の中の一語がひらがなという事実に気味の悪さや奇妙さを感じることはないのでしょうか? 私には大いに疑問ですし、腹立たしい事態だとしか思えません。更に言うならば、子どもたちが、「『障がい者』の『がい』って、どんな漢字なの?」と訊いてきたらどう答えるのでしょう? 子どもたちに「実は『害』という字なんだよ」と示して、漢字の問題について教えるのは指導にはなるでしょう。しかし「『害』を伏せよう、隠そう」とする文化にならないか、心配です。

 「そよ風のように街に出よう」に「千夏のま、イイッか」を連載している福本千夏さんは「”制度”の中の障害者たち」(「そよかぜ№128」 2007年6月23日発行)に次のように書いています。

 「最近障害者の『害』をひらがなで書くことが、なにげに拡がりつつある。『害』ひらがなバージョンの『障がい者』からは、いかにも社会はあなたたちを害だと思っていませんよ、差別していませんよ、仕事がないのは収入が少ないのは社会のせいではなくあなたの努力が足りないんですよ、だからあなたの自立を支援しますよ、という考え方が見える。だが、社会から障害を受けているのは私なのだ。市民として生きていく権利が依然として脅かされ続けている。学ぶ権利、働く権利、生きる権利を、障害者はまだまだ獲得できていない。『害』ひらがな『障がい者』ということばが一人歩きを始めた今、障害者はなお孤独になっていく。

  私はしみじみと「孤独」ということばを噛みしめざるを得ません。最も残念なことは、これだけ重要な事柄について十分な論議も経ないまま「害」が「がい」に変えられていったことです。少なくとも私自身はそういった議論の場に出合ったことがありません。4年前に「障害児教育のあり方」について意見を求められた折、私は次のように書いています。「何よりも障害者自身が「障害者」と一括りにされて呼ばれることにどれほどの憤りや抵抗を感じているか、身近にいる人たちにちょっと訊いてみるだけでも分かると思われる。ただ、個人的には「 」をつけることによって何が変わったのかを考えてみると、それほどの効果があったのかについては疑念が残る。「 」論議よりも「障害児・者観」についての論議を徹底して行うべきではないだろか?」

 「 」論議から20年あまり、その頃から何が変わったのでしょうか? また、何が変わらなかったのでしょうか?

    2007年12月7日

 

 

 

 

 

 

「障害」とは何か?

 

 石川憲彦さんの著作「『精神障害』とはなんだろう?」のプロローグ「本当に私は病気ですか?」の項で、障害について「「障害』というのは、『その時代の中で主として生産力をもちにくい人』のことを意味してきたと考えるのがいちばん素直なようです」と書かれています。その前段では「私はこれまで『障害』をいちばん規定してきたのは産業構造、生業(なりわい)だと考えてきました」とも記されています。そして農業社会の時代には身体障害者が問題視され、工業中心の社会の時代になると知的障害の人に不利になるような状況が生まれてきたと解説されています。これは今でいういわゆる「社会モデル」の考え方に立脚していることになると思います。

 「障害」とは何かについて考えるとき、国際障害者年を前に1980年に国連、WHOで生まれた障害の定義(これをいまは「医学モデル」と呼びます)と、その後これを止揚する形で生まれた「社会モデル」の二つについて触れないわけにはいきません。現在では「社会モデル」の考え方が主流とされ、障害についての研修などでも紹介されています。  

 しかしこの国では「医学モデル」の定着がなされなかったのに「社会モデル」の考え方が導入されたために混乱を起こしているように私には思えます。そのことと「障害」を「障がい」とひらがな表記する事態が各所で生まれたため、余計に混乱を招いているように思えます。そこで言葉の問題を含めて「『障害』とは何か?」について考えてみたいと思います。

 「障害をどうとらえるか?」については様々な議論がありますが、そもそも「障害」という言葉自体が持つ問題があまりにも大きすぎてどのように考えていけばいいのか、その糸口を見つけることすら十分になされていないような気がします。

 石川さんの講演で、order(秩序、命令、順序、規制、通常等)に、否定するときに使うdisがくっついて、英語のdisorderが生まれ、その訳語である「障害」があるという話はすっと落ちるような気がしました。要するに、秩序を守らない、命令に従わない、規制が難しいといったことが「精神障害」となっているわけです。

  石川さんの著作ではdisorderの説明の後、こんな風に続きます。

 「日本語では、このほかに少なくとも三つの医学・福祉関係の英語が、すべて同じように「障害」と訳されます。impairment(身体的損傷)、disability(機能不全)、handicap(社会的不利益)で、1981年の国際障害者年に向けてWHOが提起しました。さらに最近では、訳語の問題とは別に社会差別の問題をなくそうということで、「障碍」「障がい」などと表記されることが増えました。これからもわかるように、「障害」を医学の世界だけから説明していこうとすると、どうしても無理が生じるのです。「障害」は時代時代によって社会がなにを目指すかによって変わってきたのです。」と、医学モデルの限界が解説されています。

 これから医学モデルと社会モデルについて説明すると共に、「障がい」のひらがな表記の問題点について考えていきたいと思います。

 

 

 

 

石川憲彦さんの「こころ学」シリーズ

 

 児童精神神経科医の石川憲彦さんから「閉院のご挨拶」が送られてきました。林試の森クリニックをご同僚の方に継承していただき、お手伝いの立場に就かれるそうです。閉院のご報告と同時にお願いの文章があり、それが「こころ学」シリーズ刊行のお知らせでした。全8巻で、第1巻は「『精神障害』とはなんだろう? 『てんかん』からそのルーツをたずねて」で既に発行されています。予定では2021年に全巻を終えられるとのことです。早速注文したところ、先日、第1巻が送られてきました。これから少しずつ紹介していきたいと思います。

 石川さんの書かれる文は、お話と同様に大変わかりやすく、門外漢にもすっと胸の奥に入り込んでくるような気がします。随分と前に伊勢でも講演をお願いしました。当時はNHKラジオで電話相談をされていたこともあり、いわゆるファンの方も多く、会場は満員になりました。その時のお話から少しずつ紹介をしていきます。

 石川さんが小児科医だった頃、ひとに注射をしたり薬を処方することがとても怖かったそうです。そのお話を聴いた時、生意気ですが「この人は信じられるな」と感じました。

「障害」についてのお話の時には、「障害は英語のdisorderの訳語で、orderは秩序、命令、順序などですから、それをdis(…ではない)るわけで、つまり秩序を守らない、命令に従わないといったことになるんです」と解説され、会場の方々も「なるほどそうか」といった顔をされていたことを覚えています。 第1巻には、こういったエピソードや「障害」の解説も載っています。

 

 

 

 

 

住まいと暮らしのあり方いろいろ

 

宮崎 吉博

 

 9月24日(日)、神戸の「Re-Smile」というシェアハウスの見学に行ってきました。「えんぴつの家だより」にRe-Smileの見学会が掲載されていたので、早速松村敏明さんに電話をして参加の承諾をもらいました。24日の午後、新長田駅の噴水前に行くと松村さんが待っていてくれました。1年ぶりの再会ですが、腰痛に悩まされながらもお元気な様子にホッとしました。

 

 シェアハウスRe-SmileNPO法人ウィズアスの事業の一つで、3年目を迎えた現在、男性が4人、女性が5人居住しているそうです。ウィズアスは1993年社会福祉法人えんぴつの家のライフディケア事業から始まり、現在は生活・居宅介護、就労継続支援等さまざまな事業に取り組んでいます。代表は鞍本長利さんで、震災前に神戸を訪れた時にベーカリーでお会いした男性です。ちなみにRe-Smile4階建ての素敵な建物でした。

 

 Re-Smileの見学の後、住んでみえる方々との交流が持たれ、改めて「どこで誰とどんな暮らしをするか」を考えました。家との違いは「自由に料理ができる」「自由に行きたい所に行ける」「門限がない」などで、特に不満や困っていることはないとのことでした。松村さんの話によると、皮肉なことに阪神大震災で「避難所暮らしをしたこと」が自立のきっかけになったということでした。「自由」という言葉の重さを噛みしめ、来年の職員研修はウィズアスだと確信して帰路につきました。

 

 グループホームの次は他の「住まいのあり方いろいろ」を探ってみたいと思っていますが、シェアハウスも選択肢のひとつです。しかし今回のシェアハウスは車椅子の人たちが中心で、グループホームでの生活が困難になった方(全面介護になりスタッフが不足等)の住まいだったのでステップワンとは事情が異なります。「グループホームは嫌だ」と思う人のための住まいにはどんなものがあるのか、まだまだ手探りの状態です。いろいろと出かけてみることから始めようと考えています。

 

 

 

 

豊能障害者労働センターを訪ねて(その3)

 

  研修の場で私たちに事業の説明をしてくださった豊能障害者労働センター副代表の新居良さんには「箕面市における障害者就労の取り組み ― 豊能障害者労働センターと障害者事業制度の発展 ―」という文章がありますので、参考にさせていただきながら紹介したいと思います。

  箕面市の社会的雇用制度は、市が障害者への賃金補填と支援者、設備への助成をすることで、
障害者の働く場を確保し、経済的自立が可能な最低賃金を保障していくものであり、一方、補助を受ける事業所は、重度の障害がある人も能力や適性に応じて働けるよう職種開拓・職域拡大を行い、障害者の経営参画などを図るもので、箕面市において20年以上にわたって続いている独自の制度です。

 新居さんは歴史的経緯として何期かに分けて書かれています。

<1981年~1986年 重度障害者の働く場を生み出す市民の運動からの提起>

 発端は1982年、養護学校を卒業した一人の脳性まひの少年の「どこにも行くところあらへん」という叫びから生まれた豊能障害者労働センターにあります。「どこにも行くところあらへん」の時代背景は次のようなところにあります。

 各地での反対の運動がありながら1979年養護学校が義務化されています。自身が当時の「特殊学級」担任となったのが1978年ですから、ちょうどその頃です。当時は養護学校の何たるかも分からず、中学校の特殊学級の担任の大きな仕事は「卒業生の仕事さがし」とばかりに工場や商店を軒並みにかけずり回っていた時代です。養護学校の高等部のない時代は、高校進学がままならないことで、障害児の親は「在宅か施設か」を迫られることも多くありました。現在の小中学校の若い先生方にそのことを話してもピンとこないようです。当たり前ですが…

 豊能障害者労働センターは市民の運動が母体となり、障害者2名、健常者4名で出発します。収入源は、他人介護料を利用したヘルパーの所得、粉石けんの販売をはじめとする自主事業、カンパ活動の所得の合計であり、ここでも「財布は一つの原則」が貫かれます。このような共同性は「当時、重度障害者の働く場を生み出すに当たって、いわば生きるための命綱であった」とのことです。

 

 

 

 

 

豊能障害者労働センターを訪ねて(その2)

 

 「どこにも行くとこあらへん!」という養護学校を卒業した一人の脳性まひの少年の叫びから始まった労働の場づくりは、当然のように平坦なものではなかったことは容易に想像がつきます。その一端でも知ることによって、いろいろな面で改革・改善を試みようとするステップワンの職員の意識が変わればとの思いの研修でした。

 先ずは「分け合うのが原則」という発想がステップワンにはなかっただろうと思います。能力主義の問題やその克服については意識を持っていても、現実的に例えば給与についても分け合うという発想は出てきませんでした。そういった問題について、副代表の新居さんからお話を聞きました。

 「最低賃金はクリアしているけれど、分け合うのが原則なので何年経っても昇給しない」という話に、ステップワンの職員は自分の生活を振り返りながら衝撃を受けただろうと思います。

障害者も健常者も金額的には同じくらいで、一人暮らしだと家賃分くらいの手当があったり、年金をもらっていない人は上乗せがあるそうです。健常者は家族がいると共働きで何とかやりくりしているとのことでした。障害者労働センターに勤めて長い人は長く、どこでも同じですが一般的に年齢が高くなってきているようです。

 「給料のことは予め分かっています。要は働きがいにつながっているかどうかではないですか?」の言葉、そして「楽しければやりくりするもんです」に、もう一度「働くって何だろう?」と考えた私たちでした。

 新居さんからは箕面市の障害者事業制度について詳しく教えていただきました。次回から紹介したいと思います。

 

 

 

研修報告

 豊能障害者労働センターを訪ねて

 

   529日(月)、今年も県外研修に出かけました。去年は神戸市の「えんぴつの家」でお世話になりましたが、今回は大阪箕面市にある豊能障害者労働センターを訪ねました。会報にも書きましたが、ステップワンが誕生した頃は大阪や兵庫の方々に作業所作りのノーハウ、コンサートの企画や運営についてたくさんの教えをいただきました。そんな縁もあっての「大阪へ行こや!」になりました。

   事前にセンターから行程を送っていただき、箕面駅からの道筋も詳しかったので無事に豊能障害者労働センター事務所に到着。「キャベツ畑」のお弁当をいただきながら事務所の雰囲気や人の動きを見ながら、「なんか自然やなあ‥‥」と当たり前のような感想。お弁当は職員の皆さんと同じのようで、担当の方が職員の方に「味はどうやった?」と食後にミニアンケートのようなことを始めたので、こちらに回ってきたら何と答えようとヒヤヒヤ。しかし本当においしい焼肉弁当でした。午後1時になると、誰からともなく機関紙発送作業が始まりました。作業を見せていただきながら障害者事業所制度、通信販売、機関紙発送などの事業について障害者スタッフの皆さんから説明を受けました。その後、リサイクルショップの見学へと移りました。長くなりそうなので詳しい報告は後日にします。

 

  何はともあれ、1982年養護学校を卒業した一人の少年の「どこにもいくところあらへん!」という叫びをきっかけに生まれた豊能障害者労働センターと1985年「昼間だけでも居る場が欲しい!」という障害者の親の声をきっかけに作業所作りを始めたステップワン。同じような想いが原点としてありますが、理念を現実に移していく上で大きな差が生まれてしまいました。どうすればステップワンが変わっていけるのかを視点に考えていこうと想います。

 

 

「春の討論集会」に参加して

 

自然に」が一番むずかしい

 

宮崎 吉博(三重県 伊勢市)

 

 

    村上健一さんのエッセイに魅せられて

   久し振りに「こんな人に会ってみたい!」と思ったので東京に出かけました。

 「ゆきわたり」2月号に掲載されている村上健一さんの「正月、電動車いすで、厄払いに行ったとき」を読んでその痛快さに気分が昂ぶり、村上さんという人に会いたくなって咄嗟に東京行きを決めました。

  ところで、「春の討論集会」への参加は一体何年ぶりになるんだろう? 篠原さんとは何年会ってないんだろう? そんなことを考えると余計に気持ちが募りました。でも東京は遠い。そこで気持ちを固めるためにNPO法人ステップワンの会報に「この一年 ~『そよ風のように街に出よう』の終刊と時代の終焉~」と題した文を載せて、村上さんの文を紹介する了解を得るためにどうしても東京に行かないと(本当は電話で済むのですが)。そんな気持ちにしました

   この一年、さまざまな出来事がありました。「西の『そよ風』、東の『福祉労働』」とも呼ばれる関西の「そよ風のように街に出よう」が終刊を迎えることになり、更に編集長の河野秀忠さんの転倒事故に続く入院、リハビリと辛いニュースが続く中で、相模原障害者殺傷事件が起こりました。障害者差別解消法が施行された年にです。何かひとつの時代が終わりを迎えているような気がしました。そんな雰囲気と共に歳の所為か、自分の心身が大きな事件の衝撃に耐えられない脆さ、何もできないことのもどかしさ、いままで何をやってきたのかという後悔、そんなものがない交ぜになって重い気分のままでした。そんな時に村上さんの文に出会ってホッとしたというのが本音です。これは「是非とも、みんなに読んでもらうために了解を得なければ」と考え、東京に出かけて大正解でした。

 

 「合理的配慮」ではなく「自然に手伝う」って?

   春の討論集会。先ずは村上さん。「この人は想像したより大きい(人物は勿論大きそうですが、ここは身体です)」、失礼ですが第一印象です。地元の神社の人たちの動きが目に浮かぶようです。ステップワンには巫女さんを経験している職員がいて、神職さんの連れ合いさんと「前にいた神社はどうだったか?」と話題にしてくれたとのことです。おそらくは村上さんが「まだまだ世の中捨てたもんじゃない、あったかいよ」と表現した雰囲気を大切にしながらの会話だったのではないかと嬉しくなりました。

  村上さんは日常生活の中で出会ういくつかの事例を挙げ、「合理的配慮云々」ではなく「自然に手伝う」「自然な姿」の大切さを話されました。そこで僕は「自然な姿って何だろう?「自然に はどうやってつくられるんだろう?」と、おそらくは答えようのない問いかけをしてしまいました。

   村上さんは「路線バスの真ん中のドアから乗ると跳ね上げ式の椅子があり、そこに座っている人にはどいてもらうことになる」と話されました。乗り慣れてはきたものの違和感はあるそうです。5分くらいかかるから、きっとイライラしている人もいるんだろうと思うそうです。みんながみんな気持ち好くとはいかないだろうし、同じ人でもその日、その時の気分や置かれた状況によってさまざまだろうと思います。ここは要するに「自分でどう納得するか」だろうと思います。例えば、大変だなあと思いながら待って見ている人、待たされて不愉快だと思う人、自分も何かできないかと思う人、いろんな思いがあるのでしょう。いくら合理的配慮の学習をしても、その場その時の気分を好い方に向けることはできないだろうと思います。それよりはそういった場面に何度も出会っていくよりないのではないでしょうか。それこそ自然に慣れていくことが一番なのでしょう。

   今泉さんも幾つかの事例を紹介しながら「温かい目で見守ってほしい。本当に困っているかどうかは聞いてみないとわからない。声をかけて」「何よりも身近に障害者がいることが大事」と話されました。いずれにしろ自然に一緒にいることの大切さを感じました。

   今泉さんの話で興味深かったのは、障害者の中でも温度差があるので「何でそこまで他人にやってもらうのか?」と思うこともあるそうです。身近にいる障害者や親の中にも同じようなことがあり、どこでも一緒だなあと思わず苦笑してしまいました。

 

  「合理的配慮」からの逸脱OK!に納得

   自分としては合理的配慮のマニュアルと自然な姿は相容れないものであると考えていた節があります。障害者差別解消法についての研修で話をすることがありますが、必ずと言っていいほど「合理的配慮の具体例を教えてほしい」という要請が多く、自分の話したい法に至るまでの経過や国際的な歴史や背景には余り関心がないようです。健常者中心の合理的配慮の研修会やマニュアルの作成が続く中で、法と引き替えに何かを失ってしまうような気がしてなりません。そんな思いもあって、人の言葉や行動は決めたように一律にはいかないから必要なのはマニュアルじゃないだろうと考えていました。

   村上さんは「マニュアルは必要だろう。そこから先、逸脱することがあってもいい」として、「あくまでも例であるので、自分にどう落とし込んでいくかではないか」と話されました。そうなんだなと納得しました。どうも研修の場で「どうすればいいのか」ばかりにこだわる人を多く見てきてうんざりしていた所為かもしれません。これからは「自分の生活の中でどう自分のものにしていくかですよ」と話してみたいと思います。合理的配慮という言葉を知らなくても、それと同等かそれ以上のことを易々とやってしまう人がたくさんいます。それは講演や研修会で身についたものではないんでしょう。どうやって自然に身につけていったのでしょう。やはり「自然に…」が一番むずかしい。

   村上さんの文章で秀逸なのがフェイスブックのくだりですが、神社での一連の動きを「しっかりとした合理的配慮」とコメントした方と村上さんとのズレも、公式(マニュアル)と自然体というか、この辺りにあるような気がします。

 

 東京はどんどん地下へと発展?!

    だから、バリアフリー化?!

   篠原さんからは、「地元のバリアフリー化の現状は?」といった問いかけをいただいたのですが、うまく現状を話せなかったような気がします。地元の市長はバリアフリーに熱心だし、伊勢志摩バリアフリーセンターがあり観光にかなり役立っており意識もかなり高い団体で行政をリードしているように見えます。ただ東京を歩いてみて思ったのは、バリアフリーの重要さが田舎とは格段に違うということです。田舎なら数人の人の手を借りて済むことが東京では不可能な気がします。どんどんと地下へと発展(?)していく都会、下を見るだけでも怖くなるエスカレーター、駅の構内だけでもどれだけ歩くのか、大きな荷物を持っているとそれだけで邪魔になるような人の混雑、それはいろいろな工夫がいるだろうなと思いました。優先席でなくてもほぼ座れる電車に乗り慣れている人間には、東京では話題になるマークやバッジもなじみがありません。おそらく地元の人には「そんなものまであるの?」という感じだと思います。

   とにかく行って良かった「春の討論集会」であり東京でした。夜遅くなるとほとんど人通りのない田舎の駅に降り立ってホッとした次第です。

 

 

 

 

 

正月、電動車いすで、

 

厄払いに行ったとき

 

村上健一(東京・町田市)

 

 

 

 先日、こんなことがありました。

  今年、大厄にあたり、厄払いで地元の神社へ。神社の社殿へは階段が数段あったはず。

  電動車いすに乗って生活している私ですから、行けばひと騒動あるだろうと躊躇っていたのですが、大厄というのも気になって、やっぱり向かったのでした。

到着後、社殿を一周見渡し、中へ入るスロープなどがないことを確認。

神社の脇の駐車場に、車払いの方はこちらでという案内を見たので、最悪ここで形だけでも厄払いか、車いすの車払いでもしてもらうかなどと、自分なりに笑える落ちも見つけたところで、いざ受付へ。

「大厄の厄払いをお願いしたくて来たのですが」

受付に座っていた人は私を見ると、首を伸ばしてのぞき込み。

「少々お待ちください」

受付の奥では、さてどうしたものかと話し合いがされているご様子。

数人が、受付のある建物から出て行きました。

ある人は、神社の本殿を確認しに行ったようです。

またある人は、僕の車いすの具合を少し遠くから確認し、「大きいな」などとつぶやいているようでした。その人たちが戻ると、受付の奥も慌ただしくなってきました。

こうなるよねとは思っていたので。

「あの~、出直しましょうか? あるいは

「大丈夫です。もう少しだけ相談させてください」

ついには祈祷師さんや巫女さんらも集まり、あーでもない、こーでもないと。

いやぁ、やっぱり大ごとだ。

まぁ事前に連絡もしていなかったし、ここは少し引いてみよう。

「あの~、車払いはそこの駐車場で行うんですよね? そこで払ってもらうわけには

「いえいえ外は寒いですし、もう少々お待ちくださいね」

 駐車場ではどうだこうだという声が奥から聞こえた後、しばらくして。

「今、板をお持ちしますので」

「え、板? 板があるんですか?」

すると神職さんたち数人が、えっさほいさと数枚の板のようなものを運んできました。

「これでどうですか?」

「これ駐車場の看板じゃないですか! まさかスロープにですか?」

笑顔でうなづく神職さん。

「いやバチが当たりますよ、割れちゃいます。仮にこれが頑丈な板だとしても長さが足りないです」

別の神職さんが手を挙げます。

「では大急ぎで物置を片付けますので、そこでいかがでしょう?」

「それも申し訳ないですよ、僕は外で全然構わないですよ」

すると巫女さんのひとりが。

「現在数名の巫女がおります。巫女は若くて力もありますし、何名いたらこの車いすは持ち上げられますか?」

この提案にはびっくり。神職さん達は皆ご高齢、なるほど、巫女さんに神輿のように運んでもらって、ミコにミコしでこりゃ年の初めから縁起が

「いやいやいやっ、やめましょう。ケガさせちゃったら大変です」

そうこうしていると祈祷師さんが。

「では私がここまで降りて来てお払いいたしましょう、外でもよろしいですか?」

「はい、ありがたいです」

 

青空の下の公開厄払い。

社殿の中の様子が見えるように、普段は閉じている扉を開けてお払い開始。

お払いの言葉が聞こえないからと、先ほどの巫女さんが私の後ろについて解説を。

いいんです、これが一番平和な形です。

祈祷師さんが僕の前まで降りて来てシャンシャンシャン。

最後に巫女さんにお神酒を飲ませてもらって、厄払いは無事終了。

それにしても神社の皆さんには、本当に感謝。

いやぁ寒空の下でしたが、温かい、なかなかメモリアルな厄払いとなりました。

―という体験談をFACEBOOKにアップしたんです。

するとある人が、「両者建設的な対話がなされて、しっかり合理的配慮をしてもらえましたね、いいお話です」と、コメントを寄せて来たのです。

 

 ちょうど榎本さんから春討で「障害者差別解消法」「合理的配慮」をテーマにしゃべってほしいと言われ、放っておいてくれよ、合理的配慮なんて意識して生活していない-と

逃げていた最中の出来事。

 私はコメントをもらうまで合理的配慮の合の字も意識していなかったし、むしろ、久し振りに街中で、ごちゃごちゃとせめぎ合ったぞと思って、まだまだ世の中捨てたもんじゃない、あったかいよってアピールもしたくてFACEBOOKにアップしたつもりだったので、ショックでショックで。

 春討のテーマはその後「バリアフリー化の現状を歩く」に変わったようですが、これは逃げずに一度向き合ってみないとなと思うきっかけとなりました。

 

 同じくお話をする今泉さんは,大学の先輩で,私の師匠的な存在です。私が学内で授業を受けようとするも,車いすで階段を越えられず(学生の手を借りて持ち上げてもらうやり方)、部室へ行くといつも煙草をふかしていた先輩です。目ぇ見えないのに上手に(見る人によっては危なっかしくて仕方がないようですが)煙草に火を付ける人だなぁ、これが先輩の第一印象。煙突を立てながら先輩は、「まぁそんな日もあるさ」と。「介助を頼む時もがっついて頼んだらビビられるよ、うまく行きゃラッキー、うまく行かなきゃまた次でってくらいでいいんじゃない」「カップルに頼んでみな、男は女の前ではかっこいいとこ見せようとするもんだよ

  今泉さんからは、学生生活の送り方(サボり方)と介助を頼む時の距離感、それと煙草を教わりました(笑)。当時僕はまだ手動の車いすでしたが、目の見えない今泉さんが僕を押し,僕が目となって、いろんなところに遊びに行ったりもしたものでした。

  そんな今泉さんと篠原さんとの語り合い。篠原さんは僕のゼミの担当教員であり、入学前の面接の時から学内生活も、その後もずーっとご指導いただき、昨今では,昨年、私の結婚式の時にこれでもかってくらい熱く長い乾杯の音頭を取っていただいた御仁です。

 「ゴチャゴチャと居合う中のせめぎあいの関係性こそ」を学生生活の中で私が経験していった,議論し合った時代に,とても近くにいた二人との対談。内輪な雑談にならないか心配ではありますが、とても楽しみでもあります。

 「合理的排除」、あっ、いや「合理的配慮」でしたね。私は好かんです、この名称。どんなものなんでしょうか。

 当日はよろしくお願いいたします。

 

 

 

 2月5日(日) 人権講座を開催しました。 ステップワン作業所に 鈴木健一伊勢市長にお越し頂き、「これからの福祉」についてをお話を頂きました。 

 

 お話を聞かせて頂いて感じた事があります。鈴木市長はとても福祉に力を入れていると思いました。「福祉の人材育成」「現場の声を!」この2点がとても印象深く残っています。私自身のことも含めて、人材育成はとても大切だと思います。人を育てる事はとてもとても難しいです。毎日が手探りのような状態ですが、「人材育成」なくしては将来の展望がないと考えます。

 次に「現場の声」を大事にする事によってよりよい支援に結びついてくるのではないかと思います。果たしてそれができているのか考えていきたいと思います。

最後に、コミニューケーションが難しい方の気持ちも大事にしたいと思いました。

 本当に今日はありがとうございました。

 

 

 

研修報告

研修名 えんぴつの家

場所  神戸市三宮

日にち H28.5.16

 

研修内容

・パン工場の見学

・自立センター見学

・ケアホームの見学

・「えんぴつの家」の設立についての説明を聞く。

 

 

職員の感想

Aさん

・ 利用者の方が全員で楽しめるように、支援員の全員が同じ方向で進んでいけるようにする事が大切だと思いました。今後は若いボランティアさんの力がとても大切だと思いました。生活の中で一つでも出来る事を増やしていく、地域に出かけ利用者さんの事を1人でも多くの人に知ってもらいたいと思いました。

 

Bさん

・ 松村さんの揺るぎない信念が利用者・支援員全体に伝わっており、上手く運営されているのだと思いました。

 

Cさん

・ ボランティアさんを増やしていきたいと思いました。

 

Dさん

・ 障がい者が当たり前の生活をするという事は、難しく複雑な事なのか・簡単でシンプルな事なのだろうか。

これからも利用者の笑顔がたくさんみれるように過ごしていきたい。

 

Eさん

・ たくさんの人数だから出来る事、少人数だからこそできる事、規模や環境は違っていても、今のステップワンに足りない事、一番大事な事は何かについて考えさられました。

1人ひとりが自信を持ち力強く笑顔のある姿が印象的でした。

 

Fさん

・ 今、できる事は一体、なんだろか?やれる事はどんどんやっていきたいと思いました。その為には、様々な方のご協力・ご支援が必要だと感じました。とても良い経験となりました。

 

  5月15日(日)の新道のお店「すてっぷわん12周年記念バザー」の代休を利用して、16日(月)に職員研修で神戸に行ってきました。ステップワン作業所を立ち上げる時、お手本としようと思ったのが「えんぴつの家」でした。当時は学校の先生をしてみえた松村敏明さんを訪ねてステップワンの何人かで見学に行きました。作業所を立ち上げるかどうかで迷っていた頃、東京の北村小夜さんから「いいとこさがしよりは、いいとこを作ったほうが良い」と言われ、その言葉を頼りに動き始めた30年近く前のことです  

 久しぶりにお会いした松村さんはとてもお元気で、「えんぴつの家」の歴史などをお話しいただいた後、パン工場、自立センター、グループホームなど数か所を案内していただきました。職員の体制が大きく一変した今のステップワンにとって、とても意義深い研修になりました。何よりも松村さんの姿勢そのものに感銘を受けたようです。感想や報告は随時、掲載していきたいと思います。

 

 

 

ステップンが原点としている場所

神戸にある「えんぴつの家」です。

 

「地域でともにいきる」事を大切にしている場所です。

 

原点を大切にし、活動していきたいと思います。

今後もご支援・ご協力よろしくお願いします。

 

 

 

今後も研修報告を更新していきます。